大阪朝日が部数拡大のために開催した野球大会

 大正時代に入り1915年、全国中等学校優勝野球大会が豊中球場で始まった。中等学校は戦後の学制で言えば中学3年から高校2年に相当する。今の高校野球の前身だ。

 主催は大阪朝日新聞。朝日新聞と言えば「野球害毒論」を展開したはずだが、それは「東京朝日」であって、大阪は野球擁護の立場だったのだ。

 大阪では大阪毎日新聞が急伸しており、大阪朝日は危機感を抱いていた。部数獲得のためにも人気が高まりつつあった野球を利用しようという意向があったようだ。

 第一回は10校が本大会に出場し、京都二中が優勝した。翌1916年は、慶應義塾普通部が優勝。昨夏の慶應義塾高の優勝は実にそれ以来107年ぶりだった。

 朝日新聞は連日、大会の模様を紙面で伝え、大きな評判を呼んだ。会場の大阪、豊中球場には多くの観客が詰めかけたので、1917年には兵庫県鳴尾の競馬場内に新球場を建設した。しかしこの球場もすぐに満杯になったので、大阪朝日新聞社は阪神電鉄に新球場の建設を提案、運賃収入の増加が見込めるとして阪神電鉄はこの提案に応じ、1924年に阪神甲子園球場が開場した。

阪神甲子園球場に残る開場時の球場の姿(筆者撮影)
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