現在の成田国際空港(MR.WICHAI THONGTAPE/Shutterstock.com

(フォトグラファー:橋本 昇)

 日本の空の新たな玄関口として新東京国際空港(現在の名称は成田国際空港)が開港したのは45年前の1978年5月。その頃から海外旅行も私達の身近なものになり、開港以来、成田空港は海外旅行へのわくわく感で満ち溢れた場所となった。

 しかし、旅行客で溢れる成田空港に行くと、空港が出来るまでの今昔物語にある種の感慨を覚えることがある。

 物語の主人公は地元の農民と新左翼活動家だ。

子どもから老人までが参加した空港建設反対運動

 話は1960年代にさかのぼる。当時、高度成長期の日本では航空の需要も急激に増大し、政府は羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画に着手することとなった。時あたかも東京オリンピック開催を2年後に控え、日本中が好景気を享受していた時代だ。空港建設の当初の計画を見ても、「この際、中途半端なものではなく可能な限り大きい空港にする」と、威勢が良い。

 そのバラ色の計画に暗雲が広がり始めたのは空港用地の決定からだった。利害なども含め紆余曲折した空港建設予定地選定だが、1966年7月、突然に空港建設予定地は成田市の三里塚に決定と発表されたのだ。それに地元の農民は猛反発、すぐさま「三里塚空港反対同盟」が結成される。これが長く激しい闘争の始まりだった。

 その後、古村(こそん)地区である芝山の反対同盟と合流し「三里塚芝山連合空港反対同盟」となった団体は、当初日本共産党と日本社会党(当時)の支援を受け、その後は新左翼と共闘し、数々の運動を繰り広げた。