3000人の機動隊員に守られながら職員が反対派の砦に迫っていく。男女の小学生たちが小さな頭に「少年行動隊」と記されたヘルメットを被り「機動隊帰れー」と金切り声で叫ぶ。傍らにいた老婆は自らを鎖で木柵に縛り鍵までかけていた。

 さらに機動隊を困らせたのは人糞肥やし作戦だ。人糞肥やしをため込んだ堀から爺さんが柄杓で肥えを機動隊員めがけて振りまくのだ。これには火炎瓶や投石に慣れている機動隊員も往生していた、困り果てたことだろう。

世間から遊離しはじめた運動

開港粉砕!闘争勝利と叫びながらデモ行進する反対派支援学生や労働者(写真:橋本 昇)
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「百姓は土地ーいー売ったらお終めえだ‼」

「ご先祖さまの土地を取り上げるのか‼」

 農民の抵抗は激しかった。しかし、空港公団による土地収用はじりじりと迫っていった。

 同年9月の第二次強制収用では、とうとう死傷者が出る惨劇が起きた。後方警備の神奈川県警機動隊が400名の赤ヘルの戦旗派部隊に襲い掛かられ、三名の機動隊員が死亡したのだ。

 当然のことだが、こういう暴力行為による反対運動は世間から批判を浴びた。もちろん反対運動のすべてが暴力頼みだったわけではない。一方には本当の農民運動の姿を探して農家に住み込み農作業を手伝いながら地道な反対運動に参加する学生や労働者も少なからずいたことを思い出す。「日に焼け、肥やしの臭いが肌にしみこんでこそ土地を守る農民の気持ちがわかるんだ」と、ある学生は言っていた。

 しかし、日ごとにエスカレートする反対運動は次第に社会から見放されていった。

「あの三里塚闘争はもう世間から完全に浮き上がっている。農民の反対運動の域を越えてしまっている」

 そう言われて彼らは社会的に孤立していった。同時に反対勢力の活動方針を巡る内部対立も激しくなっていった。