徳川家の菩提寺、芝の増上寺(写真:鵜飼秀徳、以下同)
(鵜飼秀徳 僧侶・ジャーナリスト)
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の墓所が、遺族の元から離れることが明らかになった。明治時代に興した徳川慶喜家5代目当主が進めている「墓じまい」と、家系を終わらせる「家じまい」の一環で祭祀継承権を手放す。今後の墓所の管理は、上野東照宮に移る見通しだ。
徳川慶喜といえば「大政奉還」を行い、江戸城を無血開城へと導いた歴史上の重要人物として知られる。死後は歴代将軍家の墓所とは離れて埋葬されていた。慶喜の数奇な運命と、将軍の埋葬の歴史を解説しよう。
徳川慶喜は1837(天保8)年、水戸徳川藩主斉昭の7男として、小石川の水戸藩上屋敷で生まれた。その後、一橋家の家督を継ぎ、1866(慶応2)年に第15代将軍に就任したが、翌年には大政を奉還した。
王政復古の大号令が発せられ新政府が立ち上がると、慶喜はそれに反発したが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北。それに続く江戸城開城の後、慶喜は恭順の意を表して寛永寺にて謹慎し、その後は駿府に隠棲した。ここに、260年間続いた江戸幕府は終焉を迎えたのである。
明治維新後、慶喜の立場は微妙なものだった。政権を投げ出して逃亡した「暗君」と非難する者もいれば、内戦を回避し近代化への道を開いた「明君」と評価する者もいた。
慶喜は、1897(明治30)年に東京に戻り、後に文京区に移り住んだ。1898(明治31)年、大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見。そこから皇室との距離が縮まっていく。
1902(明治35)年に公爵を授かり、失墜した名誉はようやく回復された。慶喜は徳川宗家を離れ、新たに徳川慶喜家を創設した。
1913(大正2)年11月、慶喜は急性肺炎のため文京区春日の邸宅で76年の生涯を閉じた。葬儀委員総裁は渋沢栄一が務めた。
ここで注目すべきは、慶喜の墓が、徳川家の菩提寺である増上寺や寛永寺の歴代将軍墓所には設置されず、東京都立谷中霊園と同じ墓域にある寛永寺墓地に設けられたことだ。これは、歴代徳川将軍の中で異例の選択だった。