歴代将軍の葬儀を巡る増上寺と寛永寺との綱引き

 現在、家康の遺骸が埋まる墓所は、日光東照宮の最奥部にある。奥社宝塔(重要文化財)と呼ばれている。8角5段からなる基礎石の上に、青銅製の基壇と唐銅(金・銀・銅の合金)でできた高さ5メートルの宝塔が置かれている。

 2代秀忠の死に際しては、遺言通りに増上寺で葬儀が行われ、廟墓も増上寺につくられた。家康が日光に祀られた例外はあるにせよ、秀忠の死をきっかけにして、増上寺は徳川家の菩提寺の地位が固まったと思われた。

 ところが3代家光の代になって、状況が一転する。家光は父秀忠とは確執があったとされ、その一方で、祖父家康を心より崇拝していた。家光は1625(寛永2)年、思慕する天海のために上野に寺領を与え、寺を開かせた。それが後に、将軍家の第二の菩提寺となる寛永寺だ。

 家光は1651(慶安4)年に48歳の若さで亡くなった。家光も臨終に際し「死後も魂は日光山中に鎮まり、東照公(家康)のお側近くに侍り仕えまつらん」と遺し、祖父にならって日光に廟墓をもつことを望んだ。

徳川家の第二の菩提寺、上野の寛永寺
徳川綱吉の霊廟にある勅額門(重要文化財)

 家光の亡き後、歴代将軍の葬儀と廟墓設置を巡って、増上寺と寛永寺との綱引きが始まることになった。

 将軍や正室の葬儀を執り行い、墓所をもつことは、将軍家や大名らから多大なる布施が入ることになる。しかも、弔われる回忌法要の数は墓所数に比例するので、布施が永続的に続くことになる。

 こうして、増上寺と寛永寺との熾烈な葬儀・墓誘致合戦が繰り広げられていったのである。8代吉宗以降は、ほぼ交互に霊廟が建立される形が定着した。

 なお、増上寺・寛永寺の徳川家霊廟はいずれも太平洋戦争時の空襲などでおおかた焼けてしまい、往時の面影はほとんど残されていない。

 増上寺に祀られていた徳川将軍家の霊位は夫人や子女らを含めると計38人。その廟墓は、秀忠と夫人のお江の方を祀る「南霊屋」と、その他の将軍・夫人を祀る「北霊屋」のエリアに分かれており、将軍ごとに拝殿と本殿などの建築物がついた豪壮な施設であった。

 1945(昭和20)年3月10日と5月25日の大空襲によって、増上寺は大殿を含む伽藍のほとんどが灰燼に帰した。瓦礫の山となった南北の廟所は戦後、西武グループが徳川家から買収し、1964(昭和39)年の東京オリンピックにあわせて北霊屋跡に東京プリンスホテルを開業させた。

 1958(昭和33)年、歴代将軍の廟所が発掘され、土葬と火葬が混在する将軍らの遺体(土葬)は改めて桐ヶ谷斎場で荼毘に伏され、現在の増上寺大殿西側の新墓所に改葬されたが、往時とは比べ物にならない小さな規模のものとなっている。

増上寺の歴代将軍の墓所