慶喜が徳川の菩提寺を離れた理由
慶喜が菩提寺を離れた理由は、天皇に対して忠誠を誓ったからといわれている(理由は諸説あり)。わが国は明治に入って、江戸時代までの「国家仏教」から訣別し、「国家神道」の体制になっていた。明治天皇による名誉回復に対する恩義を感じていた慶喜は、神葬祭で葬儀を行うよう遺言に遺していたという。
墓のデザインは、京都の明治天皇陵と類似する円墳形式となっている。直径1.7メートル、高さ72センチメートル。隣には妻・美賀子の円墳がある。敷地は約990平方メートル(約300坪)と広く、大きく育った樹木で覆われている。
谷中霊園にある徳川慶喜と妻・美賀子の墓所
明治天皇陵を模した、神道形式の円墳が特徴
これまで親族で管理してきたが、木々の剪定や塀の改修に多額の費用を要し、維持が困難になっていたという。慶喜の埋葬地は「歴代将軍家墓所」ではなく、「独立した一族の墓所」として整備されたがために、墓じまい問題に直面したのである。
今後、慶喜の墓所の権利は上野東照宮に移管されるという。上野東照宮は初代将軍家康と8代吉宗、15代慶喜を祭神とする。上野東照宮側は「任せていただけるならうれしい」と歓迎している。したがって、庶民の「墓じまい」のように、今すぐ慶喜の墓が撤去されるということはなさそうだ。
では、慶喜以外の徳川歴代将軍の墓はどこにあり、どのような経緯でそこに埋葬されたのか。
初代家康は日光東照宮(埋葬当時は輪王寺)、2代秀忠は増上寺、3代家光は日光輪王寺、4代家綱は寛永寺、5代綱吉は寛永寺、6代家宣は増上寺、7代家継は増上寺、8代吉宗は寛永寺、9代家重は増上寺、10代家治は寛永寺、11代家斉は寛永寺、12代家慶は増上寺、13代家定は寛永寺、14代家茂は増上寺である。
内訳は、増上寺6、寛永寺6、日光2、谷中霊園1だ。慶喜の神道を除いて14人の将軍は、仏式で埋葬されている。
徳川家の本来の菩提寺は、浄土宗の大本山増上寺だった。増上寺と徳川家の寺檀関係は、家康が増上寺住職の存応に帰依したことで生まれたといわれている。1590(天正18)年には、正式に増上寺の檀家になった。
家康は臨終を前にして、側近の天海らを呼び寄せた。そして、こう遺言を残した。
「私の遺体は静岡の久能山に安置し、葬式を増上寺で執り行い、位牌は三河の大樹寺に祀ったうえで、一周忌を済ませれば日光の輪王寺に仏堂を建てて改葬せよ。京都の金地院にも仏堂を造って、京都所司代ら武家たちに参らせよ」
遺言のように、日光東照宮はもともとあったわけではなかった。一周忌を期に、現在の日光東照宮に隣接する輪王寺の境内地に墓が立てられた。同時に、家康を神として崇めるお宮(日光東照宮)が造られたのだ。