当時は70年安保に関連して学生運動が勃興していた。そして新左翼の学生たちにとっても成田空港建設の問題は、ベトナム戦争反対運動や、時の佐藤内閣への反発運動につながる象徴的な対象だった。
当時の全学連委員長は「農民の反対運動を支援せずに何が階級闘争だ‼」と、集会で檄を飛ばしている。
一方の反対同盟も、少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊、を組織し、まさに一家総出で反対運動に参加した。
切り崩される反対派、エスカレートする暴力行為
しかし、ここで空港公団は用地買収に破格の条件を提示した。それによって反対派から条件賛成派に移る世帯が続出し、反対同盟は分裂した。そして、空港公団は1968年の春には民有地の9割近くを確保した。
残りの1割の反対同盟にとどまった世帯がまさに血みどろの闘いを繰り広げるのはその後だ。座り込みや投石で機動隊と衝突したが結果が得られなかったことにより、反対同盟は暴力による闘争も厭わないという方向に向かったのだ。
強固な「砦」も築かれ、それは反対運動のシンボルとなった。そして数々の暴力行為や破壊行為もエスカレートしていった。
そういう状況の続く1971年2月、土地収用法に基づく強制代執行が行われたが、これには全国から数万人の学生や労働者が反対運動支援のために集まった。当時学生だった私も傍観者程度の立ち位置で反対運動に参加していたが、農民の怒号が飛び交う中の怨念の修羅が泥の大地を包み込んでいるような光景を啞然として見ていた記憶がある。