20年の刑期を満了して出所した重信房子。彼女の眼だけは意志の強さを保っているかに見えた(写真:橋本 昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

 正直、驚いた。マスメデイアがこんなに興味を持つとは思ってみなかったのだ。日本赤軍の重信房子元最高幹部(76)のことだ。

 5月28日午前8時過ぎ、元日本赤軍トップリーダーの重信房子は東京都昭島市にある医療刑務所「東日本成人矯正医療センター」を出所した。20年の刑期を終えての出所だった。

 学生運動当時の重信を知る身としては、彼女の出所の瞬間はぜひ写真にとらえたいと思った。センター前についたのは午前5時45分。「ちょっと早過ぎたかな?」と思いもしたが、すでに5~6社のカメラマンたちが門の前でたむろしていた。

 それだけでも驚きだが、その後、取材の人間はどんどん増え、最終的には150人くらいは集まっていたのではないだろうか。その関心高さに、改めて重信房子という人の存在感を見たような気がした。

 が、よくよく彼らの年恰好を見れば、彼女のテロリストとしての活動時代はもちろんのこと、22年前の逮捕当時のことを知ってそうな人間は数えるほどだった。おそらく、デスクあたりの命令で取材に来たという感じのカメラマンが多かったのではないだろうか。

「ここは日本赤軍が仕切る」

 センター側から指定された撮影位置は、建物の玄関から約30メートル離れたフェンス越しの空地だった。そこにずらりと脚立が並べられ、カメラマン一同は重信が出て来るのを待った。その間にも次々と新聞、週刊誌、テレビのカメラマンや記者達が到着し、次第に現場は混乱してきた。皆、少しでも良い撮影位置を確保しようと必死なのだ。

「何だよ。これじゃあ、撮れねえじゃねぇか」

 ぶつぶつカメラマンがぶつぶつと文句を言った。刑務官は「金網には絶対に手を触れないでください!」と、注意喚起をして回る。

 7時過ぎ、彼女の一人娘、重信メイさんらが出迎えの為に現れた。周りには20人ほどの支援者たちの姿もある。支援者たちが“We love Fusako”という大きな横断幕を掲げた。

パレスチナゲリラ兵士との間に生まれた重信メイさん(写真:橋本 昇)
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 支援者代表の山中幸男・救援連絡センター事務局長が「マスコミの皆さん、重信さんは車で出ますが、いったん止まって車から降りて姿を見せますから! その時、撮れますから!」と声を嗄らすが、カメラマン達は一切聞いていなかった。