学生運動の闘士から国際的テロリストに

 私が重信房子を初めて見たのは1970年の5月だったと記憶している。場所は、明治大学和泉校舎だった。

 その日、和泉校舎キャンパスでは学生集会が開かれていた。

 その頃、明治大学は私の属していた青ヘルメットがシンボルカラーの“反帝学評”の拠点校の一つだった。そこで赤ヘルメットの赤軍派が集会をやっているという話を聞き、様子を見にいった。いや、もっとはっきり言えば、襲撃のための偵察だった。労働者のことを顧みず、「革命には軍事が必要」などと主張する彼らは、ほとんどのセクトから敵対視されていた。そこでわれわれのグループは、赤軍派を和泉校舎から駆逐すべく、別大学のキャンパスに500人ほどの学生を待機させていた。私ともう一人の仲間は、明大の学生のふりをして赤軍派の集会に偵察に出かけたのだ。

 集会は赤ヘルメットを被った学生が100人くらい集まり集会を開いていた。その中心に重信房子がいた。彼女の流れるようなロングヘアーと、今の言葉で言うところのクールビューティーな姿はひと際、目立っていた。

「重信と6時間討論すれば、完全にオルグされてアカグン(赤軍)に入るぜ」

 と、私の仲間は彼女を見ながら言った。

 その日は結局、和泉校舎前に警察の機動隊が出張ってきたため、われわれの襲撃計画は未遂に終わることになった。

 その後、彼女は中東のレバノンに渡り日本赤軍を結成した。イスラエルのテルアビブ空港で3人の日本赤軍コマンドによる自動小銃や手榴弾を使った乱射事件が起こったのはその直後だった。実行犯の2人はその場で自爆し、一人生き残った岡本公三は捕らえられた。

 そのストーリーを描いたのは重信房子とパレスチナゲリラの「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)だった。

 そしてこの事件で日本赤軍の存在は超過激派組織として世界中に知る渡ることになる。その後も、日本赤軍は世界各地でハイジャックや外国大使館占拠事件を起した。その指示も全てレバノンのベカー高原にいる重信から発せられたという。

 それから30年、パレスチナを巡る情勢も次第に変化した。重信も密かに日本に帰国していた。

 彼女が2000年11月に潜伏先の大阪で逮捕された時、やはりメディアは大騒ぎだった。大阪から東京へ新幹線で護送された重信を待ち受ける人々たちで、東京駅のホームや連絡通路は蜂の巣を突っついたような騒ぎだった。ホームを走り回るカメラマンや記者、数えきれない数の公安刑事や制服の警官たち。

 やがて、両手に手錠を掛けられ、腰縄を打たれた重信が女性刑事に挟まれて現れた。

 彼女所が私の前を通過する時、私は思わずこう声を掛けていた。

「重信さーん!」

 無意識に「さん付け」で呼んでいた。すると彼女はこちらに目を向け、ガッツポーズを寄こした。

逮捕され東京駅に護送されてきた日本赤軍リーダー重信房子(写真:橋本 昇)
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