松本サリン事件発生30年で筆者のインタビューに応じる杜祖健氏=2024年6月30日、台北市内(筆者撮影)
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(ジャーナリスト・吉村剛史)

 日本の危機管理に多大な貢献をした化学者が、静かに息を引き取った。

 父は日本統治下における台湾人初の医学博士で、自身は戦後米国を舞台に毒性学の世界的権威として活躍し、日本のサリン事件解決にも貢献した台湾出身の化学者、杜祖健(アンソニー・トウ)氏が11月2日までに滞在先のハワイ・ホノルルで死去したことが3日、関係者らの証言でわかったのだ。

 遺族によると、杜氏は10月26日、静養のため居住地のコロラドから家族が付き添い、ハワイ・ホノルルに移ったばかりだった。

父は台湾を代表する薬理学者

 杜氏は1930年(昭和5年)8月12日、日本統治下の台湾で台湾人として初めて医学博士となった薬理学者・杜聡明氏(1893~1986)の三男として台北市に生まれた。

 父の杜聡明氏は、戦後は台湾大学医学部部長、高雄医学院(高雄医学大学の前身)院長などを務めたが、日本統治時代には辛亥革命にも関与していた。1913年、初代中華民国大総統・袁世凱(1859~1916)の独裁に対する不満がたかまった際に、台南出身の同志・翁俊明(1892~1943、歌手・女優・版画家のジュディ・オングの祖父)とともに北京へ赴き、袁世凱邸水源にコレラ菌を投入して袁氏暗殺を試みたが失敗したという経歴を持っている。

母方の親類筋にあたる台中の名家・霧峰林家の末裔・林怡捷さん(左)と初対面した 際の杜祖健氏=2024年6月30日、台北市(筆者撮影)
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 杜祖健氏はこの父親の影響を受けていた。台北市樺山小学校を経て、台北一中に進学、同中在籍中に終戦を迎える。戦後は台湾大学理学部に進み、同大を1953年卒業後は渡米。スタンフォード大やエール大などで化学と生化学を研修。ヘビ毒研究を専門として、父親が医学分野で行った毒物研究を、化学者として継承した。