杜氏は今年6月27日、自身が解決に関わったオウム真理教による松本サリン事件の発生30年にあたり、一時帰国中の台湾・台北で筆者のインタビューに応じ、一連の化学兵器を用いたテロに対する日本社会の危機感の薄さ、脆弱性を指摘したうえで「テロやの他の有事に対し、日本はもっと国家レベルでの危機感を強くせねばならない」と、あらためて日本の危機管理意識の甘さを指摘していた。
(参考記事)【死者8名】松本サリン事件から30年、あれから日本の「テロ対応力」はどれくらい向上したのか
日本、台湾、米国を繋いだ毒性学の巨星
脳内で思考する作業や文章などは「日本語が一番しっくりくる」と語っていた杜氏は、晩年は日本人の友人を米国に招く機会も多く、筆者も2022年にはハワイとサンマテオの自宅に滞在させてもらったが、近隣の日本人、日系人との交流を大事にしており、また毎晩のようにスマートフォンを駆使して日本の友人とビデオ通話を楽しんでおり、筆者もそのひとりだった。
家族の反対を押し切って術後にホノルルに移ったのは、コロラドに比べて温暖で、日系人が多く、日本の友人が訪ねやすい場所に身を置きたかったものとみられる。事実、筆者を含め複数の親しい日本の友人、知人らは来年初めにホノルルの杜氏のもとを訪れる約束をしていた。
手術後の杜氏とビデオ通話で言葉を交わした台湾・台北在住のライター、片倉佳史さんによると「手術の成功を祝うと『ありがとう』と明るく応じ、体調の悪さを感じさせなかった」というが、死の直前の11月1日夕方(日本時間)に会話を交わした大阪で日台民間交流団体を主宰する野口一さんによると、「いつもは長い話になるのに、このときはいつになく辛そうで、短い言葉を交わしただけになった」という。
父の杜聡明氏が大日本帝国時代の台湾と戦後の「中華民国」の台湾をつないだ存在だとすれば、その三男の杜祖健氏は、戦後の日本と台湾と米国社会を、自身の専門分野でつなぎ、日本人に対して「危機管理の大切さを意識せよ」という警鐘を鳴らし続けた存在だった。