開港後も続く闘争
それから12年後、私は反対派が立てこもる砦の撤去を取材しに行った。
高さ10メートルの櫓の上にトタンで覆った小屋があり、中には3人の青ヘルの支援学生が立てこもっていた。その小屋をめがけて放水車が盛んに放水する中、小屋の隙間から煙が漂ってきた。機動隊の指揮者が「火炎瓶‼火炎瓶‼」と大声で叫んだ。その瞬間、火の点いた火炎瓶が2本こちらに飛んできた。
そんな攻防を繰り広げながらも機動隊員は小屋にとりつき、学生らを殴りつけて逮捕した。引き回される学生たちは疲労で血の気も失せ、全身が濡れ鼠だ。
近くの櫓には「労学共闘」と書かれた赤ヘルの若者が4人立てこもっていた。
彼らは火炎瓶はもちろんのこと、パチンコ、洋弓、などを持って、近づく機動隊員に抵抗していた。
そのすぐ横の誘導路をジャンボ機が甲高い金属音を響かせながら進んでいく。
果たして、必死の抵抗を続ける彼らは現実離れをした存在なのだろうか。
その時、一人の若者がいきなり15メートルはある櫓から飛び降り、鉄パイプを手に機動隊員に立ち向かっていった。放水でドロドロになった泥濘の中でただ一人で立ち向かう姿は、最後の孤独な戦士のように思えた。
その後の羽田空港拡張で利用客数が減ったとはいえ、今も成田空港は海外への出発口として多くの人々でにぎやかだ。海外旅行に身も心も躍らせながらトランクをガラガラと押していく若者たちは知っているのだろうか、自分の姿が映るほど磨かれたフロアーの下にかつては農民たちの闘いがあったことを。











