日本共産党が成立してから今年でちょうど100年になる。外国通信社などで活躍してきたカメラマンの橋本昇氏その歴代幹部を取材してきた。その橋本氏が撮影当時のエピソードを回想しつつ、日本共産党の歴史を振り返った(JBpress編集部)。
革靴にステッキで散歩する宮本顕治
(フォトグラファー:橋本 昇)
多摩川の土手を散歩する宮本顕治共産党議長(当時76)は堂々たる風貌だった。厚手のコートに帽子というその姿は、モスクワの赤の広場に立つソビエト共産党の政治局員を彷彿させた。私は宮本に声をかけ、目の前まで行ってカメラを構えた。1985年3月のことだ。
「ミヤケンさん! お元気そうですね」と、おそるおそる声をかけると、「うん」という力強い声が返ってきた。重く威厳のある声だったが、不思議と親しみを感じた。
宮本は1908年、山口県に生まれた。東京帝大在学中から文筆活動に励み、1929年、芥川龍之介の死を評した「『敗北』の文学」が雑誌『改造』の懸賞論文に入選したことで文壇にデビュー。そしてプロレタリア文学への傾倒と共に、1931年、日本共産党に入党。戦前の治安維持法による弾圧の嵐の中で地下活動に入るが、1933年の暮れに逮捕され、その後、「党員スパイリンチ殺人事件」の首謀者として無期懲役の判決を受け服役している。
その後、12年に及ぶ獄中生活の後に終戦による政治犯の釈放として獄を出た宮本は精力的だった。党内でも頭角を現し、1958年には日本共産党書記長に就任、その後は、ほぼ40年にわたり初代委員長、議長として日本共産党を牽引してきたのだ。強面のイメージが強い宮本だが、こうした経歴を見ればそれが印象だけではないのがよくわかる。
また、彼は逮捕時の拷問や長い刑務所生活で背中を痛めていると聞いていたのだが、国会で見る宮本は、常に背筋を真っ直ぐに伸ばした姿が印象的だった。
あの日、「週に1、2回は散歩するんだ」と、革靴にステッキという姿で歩き去った宮本の後ろ姿は静かで大きかった。そして私はその背中に、彼の背負ってきたものの重みを感じていた。