密航先の中国で除名処分、「死亡説」も流れた伊藤律
彼の人生も凄まじかった。
伊藤律は1913年生まれ。岐阜県で育った彼は、飛び級で第一高等学校に入学したというからかなりの秀才だ。その頃にはすでに社会主義に興味を持ち、高校2年の時には共産青年同盟に加盟している。そして数々の活動により放校され、その後1933年に日本共産党に入党。
そこから先の彼の人生はめまぐるしく動いて行く。
検挙、工場労働、農業史の研究、南満州鉄道入社と流転するが、そこで常に貫かれていたのは思想を追求する姿だった。ただ、1939年に検挙され拷問を受けて刑務所に入った頃から、彼の人生の歯車はまた別の方向に回転するようになる。
1945年、他の政治犯と同様に釈放された伊藤は共産党の再建に力を注ぎ政治局員となるが、当時の共産党の内部分裂と、後述する徳田球一書記長の後継者を選ぶ争いの渦に巻き込まれていく。
当時、伊藤は徳田球一の片腕だったが、1950年のGHQによるレッドパージの嵐の中で徳田を含む共産党幹部の何人かは中国に渡っていた。
彼もまた中国に密航するのだが、そこで彼を待ち受けていたのは、過酷な運命だった。1953年に徳田が中国で持病の為に死の床につくや、共産党内で徳田の後継者争いが勃発。伊藤は、かつて逮捕された時の供述からスパイとみなされ、日本共産党から除名されるのだ。そして彼は中国当局によって投獄される。
その後、伊藤の消息は途絶え、日本では死亡説も流れた。
しかし、伊藤は生き延びていた。