「あいつは党を私物化している」ミヤケン批判を展開した袴田里見

 練馬区にある袴田里見元共産党副委員長(当時84)の自宅を訪ねたのは、1988年の暮れだったと思う。

 袴田は縁側に座って老妻から背中に膏薬を塗ってもらっていた。彼はもうすぐこの住み慣れた家を追われるのだが、そんな雰囲気などどこにも感じられない穏やかな日常の光景だった。

 明治生まれの人間らしいな、と、その時思った。

 袴田里見は1904年、青森県生まれ。彼もまた10代の頃より労働運動に関わり、その後、ソ連の大学で学んでいる。日本に帰国後は宮本顕治らと日本共産党の再建に尽力するが、やはり戦前の治安維持法によって検挙、服役、を繰り返し、最終的には1935年から1945年の終戦までの10年間を刑務所で過ごしている。

 戦後は、中央委員、政治局員、などの党の要職につき、宮本委員長の片腕でもあった。1970年には党の副委員長に選出されている。

 その袴田が除名処分を受けたのは1977年のことだった。処分理由は党の規律違反。袴田が党外のメディアで宮本批判をしたのが規律違反と判断されたのだ。

 それから10年余り、党は除名と共に袴田に党所有の住居からの立ち退きを要求していたが袴田はこれを受け入れず住み続け、党との間で裁判が続いていた。

 そしてこの年の12月、最高裁で事実上敗訴が決定した。そこで袴田に取材の申し込みをしたというのが、その日、袴田宅を訪問した経緯だった。

 このとき、袴田は84歳にして意気軒昂、唾を飛ばさんばかりに宮本批判の気炎を揚げた。

「あいつは共産党内部で恐怖政治を行っている。あの陰険な目で睨まれたら誰もものを言えなくなるだろう」

「宮本は党を私物化している。熱海の党会館に自分専用のプールまで造らせたんだ。まったく・・・」

 ネチネチと陰湿な批判ならば聞く方もうんざりだが、こうも派手な正面切っての攻撃は聞いていても嫌な気持ちはしなかった。やはり明治生まれの流儀なのだろう、と妙に納得した覚えがある。

袴田里見は「宮本死ぬまでわしゃ死なん」と言った(写真:橋本 昇)
拡大画像表示