吉田茂に「敵ではあるが人間的には好きだ」と言わしめた徳田球一
日本共産党の歴史の中で、もう一人会ってみたかった人がいる。
“ハゲのとっきゅう”の愛称で知られた徳田球一だ。彼は戦後間もなくの共産党のカリスマ的存在だった。
徳田は1984年に沖縄で生まれた。弁護士となった1920年頃から日本社会主義同盟に参加、ソ連訪問から帰国後、日本共産党(第一次)の結成に加わった。
戦前は18年に及ぶ獄中生活を経験しているが非転向を貫き、終戦後は日本共産党再建のメンバーとして書記長に就任している。
その性格は豪放磊落、誰からも好かれる人物だったという。戦前の厳しい状況下で、自分を尾行している特高(治安警察)の人間さえ子分にしてビラ印刷を手伝わせたというエピソードもある。
また戦後の書記長時代、時の首相の吉田茂からも「徳田君は敵ではあるが、人間的には好きだ」と言われるような人物だった。
1950年、徳田球一はGHQのレッドパージで公職から追放され、その後中国に渡る。そして1953年、病気のために中国で客死する。日本では多くの国民がその死を悲しんだという。
今年、日本共産党は創立から100年。既存の政党の中では最も古い歴史を持つ政党だ。
1922年、第一次日本共産党は黴臭い6畳の間借り部屋でスタートした。戦前の国家体制による弾圧の中での活動は、逮捕、拷問、入獄、と、まさに命がけの活動だった。プロレタリア文学作家小林多喜二の拷問死の記録は、後の時代の我々には到底想像もできない昭和の暗い歴史を教えてくれる。
戦後、日本共産党はいったんは合法化され再建されたが、1950年のGHQのレッドパージにより再び社会から追放される。
共産党が陽の目を見ることになったのは、1953年の日本の独立後のことだ。
私の子供時代は、その共産党の興隆時代だった。アコーディオンを弾き、「我らが赤旗守る~」と歌いながら人々が腕を組んで行進する光景をよく見かけたものだ。労働者の汗や油の染み込んだ匂い、というイメージは子供である私の鼻をもちょっとくすぐったものだ。
世間にはある種の共産党アレルギーも根強かった。誰かが何か体制批判などすると、「あの人はアカだから・・」と囁きあうような空気が残っていた。
「武装闘争」、「粛清」などの恐ろし気なイメージもあったと思う。
しかし、そういう空気の中にいると逆に共産党への興味も芽生えるものだ。筆者も色々と関連する書物を読んだ。
つまりは本の中の知識しか持たない私だが、そこに出てくる戦前の共産党関係者には人間としての興味を持っていた。だからそういう人たちの写真を撮る機会を得た事は貴重な体験だった。
果たして、共産党のいわば歴史の中の人々は、それがどういう歴史にしろ、それぞれの顔にそれぞれの歴史を語らせていた。
そしてまた、その顔が私に歴史の意味と重みを教えてくれたようにも思うのだ。
(文中敬称略)