幕府は遊女たちに外国人専用の公娼(羅紗緬)の証書契約を結ばせて鑑札制にし、異人揚屋と称される女郎屋が羅紗緬を抱える形で管理した。
外国人専用の遊郭は鎖国をしていた日本の、数少ない外貨獲得の手段として機能する。
港崎遊郭は日本人用と外国人用に分けられたのは、異人には外国人相手専用の羅紗緬しか選ばせないという目的による。
港崎町建設工事の最後に残った事業主「岩槻屋」佐吉は港崎町の名主となり岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)という、町最大かつ最も豪華な「蜃気楼か竜宮城か」と賞される遊廓の主となった。
岩亀楼主佐吉は、廓会所預かり人として、また、廓名主として、遊郭全体の鑑札を握り、遊女に関する取り締まり、その他一切の権限を受け持つことになった。
つまり、港崎遊郭の羅紗緬は、すべて岩亀楼の鑑札を受けてから、外国人の遊女か妾となったのである。
こうした鑑札制度は、幕府が娼婦を取り締まる一つの手段であったが、ほかにも理由があった。
庶民の間には外国人に対する反感や蔑視する根強い風潮があり、また幕末の志士の間には攘夷論が高まっていた。
このような国情のもとで、公娼はともかく素人の女性までが外国人の玩弄物になることは、ますます彼らの反撥を強め、過激な思想や行動を助長させる恐れがあった。
それで幕府は公娼以外の者は、絶対に外国人に身を任せることを許さず、素人の女性が外国人に身を任せるときには、必ず岩亀楼で遊女の籍に入り、源氏名をつけたうえで、その身を置かせたのである。
これが名付け遊女、あるいは仕切り遊女と呼ばれる鑑札制度であり、娼婦取り締まりの手法であった。
港崎遊郭の開業当時の規模は、遊女屋15軒、遊女300人、ほかに局見世44軒、案内茶屋27軒だった。