文久2年8月21日(1862)に武蔵国橘樹郡生麦村(いまの横浜市鶴見区生麦付近)で薩摩藩・島津久光の行列に遭遇した騎馬の英国人たちを、供回りの藩士たちが殺傷。
この事件の処理のもつれから文久3年(1863)に薩摩藩と英国との間で薩英戦争が勃発したのである。
港町の妖しげな繁華街
異国に解放された新たな町は、美しい砂地の横にあったことから横浜と呼ばれていた。
世界の港を見まわしてみると、その多くは近くに性欲を発散できる歓楽街がつきものである。
当時の日本の多くの港町の近くには遊廓が在ったが、新しい港町・横浜村にも外国の公使たちから遊女町の開設の要請があった。
港町というのは淫靡な土地柄といえる。
それは「板子一枚下は地獄」という、荒くれ稼業の船乗りが遊ぶとなれば、まずは遊郭。
それがなければ、売春をする床芸者や給仕と売女をかねた飯盛り女を相手にすることになる。
だが、床芸者や飯盛り女は公然と売春が認可されたものではない。
外国人が居住区に居留するとなると、幕府が危惧したのは娼婦が蔓延り、西洋人と面倒な事件を起すことであった。
そこで幕府は開港場に公然と遊郭を認め、その一方で厳しく娼婦を取り締まろうとしたのである。