仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛(明治4年)』に出てくる「ラシャメンという毛もの」によれば、外国人マドロス(船乗り)の云うところでは「我ら寒き国へ渡りし折り、抱いて寝るなれば、すなわち我が妻も同然なり、という動物である」
十一谷義三郎の小説『唐人お吉(昭和3年)』では「これ人倫部に入るべきか、畜類部に入るべきか、決しがたき動物の名なり」
『横浜ばなし』(文久2年1862年)には、羅紗緬が外国人との性交の際、そのよがり声の凄まじさを「豚のなき声、羅斜緬の遠ぼえ」「我国と思はれぬ有様なり」とある。
いずれも羅紗緬が動物扱いされているのは、西洋人を夷狄(いてき)と蔑む、当時の日本の風習に従うもので、異人と交わる女性を貶めた記述である。
本来、公娼制度は為政者の保証により営まれるものでもある。
だが、西洋人を蔑む社会的環境のもとで、春を鬻ぐなりわいの女性たちには、自己主張する手段すら持ち合わせては居らず、当時の風潮としては彼女らの人権など問題にさえならなかった。
寒村が開港場に選ばれた理由
幕末期、安政5年(1858)日米修好通商条約を締結したハリスは東海道の宿場町である神奈川宿付近(現在の京急神奈川駅あたり)の開港を江戸幕府に要請していた。
だが、東海道からやや離れた久良岐郡(くらきぐん)横浜村を開港場とすることを幕府が決定すると、諸外国の公使らは、辺鄙な寒村が開港場となることに声を上げた。
しかし、幕府は耳を貸さなかった。
なぜなら幕府は外国人と日本人の接触を極力制限したいと考え、往来の著しい東海道に異国の徒が跋扈すれば、事件や事故が起こりかねないという危惧があったからである。
実際、その懸念は的中し横浜開港3年後、事件は起きた。