日本人相手の遊郭よりも賃金が高いことから羅紗緬は次第に増加し、文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べによれば、羅紗緬鑑札の所持者は500人に膨れ上がった。

 遊女の中には商館行きと称して、一夜、または二夜、三夜と連続し、あるいは半年仕切り、一か月仕切りとして外国商館に雇われていく者が次第に多くなっていった。

 幕府は日本人女性が外国人と結婚するのを禁じていた。

 しかし、外国人の中には、一方で公娼ではなく素人の娘を妾として抱えたいという強い要望が、居留地の異人の間から沸き上がる。

 素人の女性が外国商館に召し抱えられることは、娼婦の取り締まりの観点から固く禁じられていた。

 しかし、妾となる素人の女性も、いったん岩亀屋で遊女の籍に入り、源氏名をつけたうえで外国人のもとに行った。

 彼女たちは外国人からの給与から遊女屋へ鑑札料を支払うことを条件に、異人の妾になることを幕府は許可したのである。

『横浜ばなし』(文久2年1862年)には、

「右は女郎衆沢山有れども、其内異人に出る羅紗緬女郎は別にあるなり、異人見立気に入り候へば屋敷へ連ゆき一夜洋銀三枚也、尤此内にて岩亀楼への割駕籠ちんまで持切なり。此外屋敷に居る妾にもあり、町にかこひ女もあり」

 と、外国人に気に入られた女郎や囲われ妾の報酬、そして岩亀楼へのカネの流れが綴られている。

 港崎遊郭は「岩亀楼」「神風楼」「五十鈴楼」「黄金楼」の四大楼を筆頭に「金石楼」「金浦楼」「富士見楼」など楼閣は18軒、下級な売春小屋のようなところは84軒。幕府が管理する鑑札遊女は最盛期・1400人に増加した。

明治時代では珍しい3階建ての建物の上に時計台を設けた岩亀楼。蜃気楼か竜宮城かと賞され、他の大店(おおだな)を圧倒する威風堂々とした見世であった
石油ランプのシャンデリアが架かるなど日本を代表する絢爛豪華さを誇る岩亀楼、夜だけでなく日中も座敷に見料を取って一般見物客に開放した 画:二代目歌川広重