安吾の狂気について、安吾の盟友で作家の檀一雄は「薬のせいばかりでなく安吾の本質の中に、狂気が宿っていて、時折、その発作をくりかえした」と分析している。また、後年、安吾が暴れて警察の留置場に入れられ、面会した三千代はこう書いている。「彼の表情には、何も目立った感情は表われていなかった。でも、変な顔だった。どういえばいいのか、虚しいような、淋しいような、くらいあんな目は忘れることが出来ない」。留置所に入れられたら誰でもうつろな目になるだろと突っ込みたくなるが、長年寄り添った三千代にはそれとは違う安吾の感情を見出していたのだろう。

オダサクと俺は違う

 安吾は薬物にどっぷりつかってしまったが、本人は「いつでもやめられる」と思っていたようだ。実際、ヒロポン中毒で知られた織田作之助と自分を比較している。

「私は以前から錠剤の方を用いていたが、織田(作之助)にすすめられて、注射をやってみた。注射は非常によろしくない。中毒するのが当然なのである。なぜなら、うったトタンに利いてくるが、一時間もたつと効能がうすれてしまう。誰しも覚醒剤を用いる場合は、もっと長時間の覚醒が必要な場合にきまっているから、日に何回となく打たなければならなくなって、次第に中毒してしまう」(「麻薬・自殺・宗教」)

「錠剤だろうが注射だろうがヒロポンはヒロポンで変わらないのだから、どっちもヤバいだろ」と思うのだが、安吾なりのこだわりがあったのだろう。安吾は「ウイスキーを飲めばヒロポン中毒にならない」とも豪語している。令和の私たちからすると、中世の天動説並みにトンデモな発言の連発なのだが、そんな考えだからか、その後も安吾の薬物依存は治らなかった。東大病院を退院して半年も経たずに、再び発作に襲われている。

安吾の人生観—燃え尽きる覚悟

 薬物依存にもかかわらず、安吾は芸術に生命をかけた自らの生き方に一種の信念を持っていた。苦境に陥っても決して安易な道は選ばなかった。「不良少年とキリスト」にその生き様を端的に表す言葉がある。

「生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ」

 冒頭でも述べたが、安吾の最期は、彼の生き方と同様に激しく、一瞬だった。新たな連載の取材で高知県を訪れ、2月15日に帰京。同日、桐生の自宅に戻り、わずか2日後の朝、脳出血でこの世を去った。

 病弱ではなかった安吾だが、長年の薬物乱用で蝕まれた身体は、48歳という若さで限界を迎えた。皮肉にも、東大病院への入院日が2月17日頃であり、亡くなった日も2月17日である。入院から6年後の同時期に、彼の生命は尽きた。

 安吾の人生は、その才能の輝きと同時に、自己破壊への衝動が表裏一体だった。常識に反逆し、世俗に反骨し、権力に反抗した彼の生き様は、戦後直後の日本の混沌を体現するものだった。突然訪れた死は、常に全力疾走し、決して歩みを緩めることのなかった人生の幕引きとして、あまりにも彼らしいものだった。安吾の人生に引き際はなかったのである。

 遺骨は父祖の地・新津市大安寺の坂口家先祖代々の墓所に納められた。墓碑には「肉体と精神をつねに燃やし続けた男・安吾」という言葉が刻まれている。