超人的創作量の原動力

 安吾は戦前から作家としてデビューしていたが人気を得たのは敗戦後だ。『堕落論』『白痴』が爆発的に支持され、一躍時代の寵児となった。昭和22年の1年間だけで、小説集8冊、評論集2冊、雑誌・新聞・座談会など長短70近い作品を発表している。昭和22年、23年の二年間では著書は30を数える。「来るものは拒まず」の姿勢で依頼された原稿は媒体を問わず、書きまくった。

 この超人的な創作力を支えたのは薬物だった。ドーピングして書きまくっていたのだ。

 もともと体力には自信があった安吾だが、思考を集中持続させるために覚せい剤(最初はヒロポン、後にゼドリン)を常用した。今では、覚せい剤の使用は厳しく罰せられるが、覚せい剤取締法が施行されたのは昭和26年(1951年)。それまで規制はなく、薬局などで売られていた。戦前・戦中の雑誌には「ヒロポン錠 除倦覚醒剤」と広告が掲載され、「頭脳の明晰化 体力の亢進 疲労除去」など効能もうたわれていたので、安吾が何も法から外れていたわけではない。

 とはいえ、戦時中にはクスリがきまりすぎてか、空襲の時も全く怖さを感じなかったというから、かなりの常用者だったことがうかがえる。

 作家業が軌道に乗ると依存はさらに深くなり、ヒロポンやゼドリンという覚醒剤を多量に服用し、不眠不休で仕事を続け、疲れ果てると今度は酒で強制的に眠りにつく——この負の循環が安吾の日常になった。