国鉄総裁を務めた石田禮助(写真:共同通信社)
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 晩年をいかに過ごすかで人の評価は一変する。「晩節を汚したくない」と自戒しておきながらも、いつのまにか「老害」と呼ばれている人も少なくない。長寿命化の現代においては引き際がますます難しくなっている。経営者や政治家などの偉人たちはどのようにして、何を考え、身を引いたのか。人生100年時代のヒントを探る。第5回は三井物産社長を経て、国鉄総裁を務めた石田禮助(いしだ・れいすけ)を取り上げる。

公職追放を機に隠退のはずが…

 誰もが老いて醜態をさらしたくないと思うはずだ。悪しき見本は歴史上にも身の回りにもいくらでも転がっている。だが、頭では理解できても、自分のことになると実践できないのが引き際の見極めなのだろう。

 20年近く企業を取材していたが、名誉欲に駆られた老経営者を多くみてきた。社長に長らく居座ったり、会長から社長に電撃復帰したり。勲章欲しさに経済団体の要職に就くため、いつまでも会長を退かず、お声がかかるのを待ち続ける経営者も何人も見た。「いい加減、引退しろよ」と部外者の私が感じるくらいなのだから、社員はたまったものではなかっただろう。

 一方で私が取材していた頃はすでに絶滅危惧種だったが、誰もがやりたがらない職務を晩年に進んで引き受ける者も歴史を振り返ればいる。何の得にもならないなのに火中の栗を拾う。その一人が石田禮助だろう。

 石田は昭和の経営者であり、戦前に三井物産の社長だった。そう聞いてもピンとこない人がほとんどかもしれない。実際、彼が歴史に名を残すのは三井物産の社長としてではなく、晩年の功績によるものだ。

 石田は明治19年(1886)、静岡県に生まれる。明治40年(1907)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、三井物産に入社。大連・シアトル・カルカッタ・ニューヨーク各支店長を歴任、出世の階段を順調にのぼり、昭和14年(1939)に代表取締役社長となる。昭和18年(1943)に交易営団設立とともに総裁に就く。戦後、公職追放令により隠退する。

 終戦時、59歳。蓄えもあるし贅沢をしなければ気ままな暮らしを送れる。そもそも、当時ならばいつ死んでもおかしくない年齢だが、石田が名を残すのはそれからだ。舞台は「国鉄」だ。