就任後は、国鉄職員には官僚精神を捨てろと説き、大都市通勤対策の予算や名神高速バスの免許を勝ち取るなど出だしは好調だったが、同年11月に起きた鶴見事故は石田を変えた。161人が死亡し120人が重軽傷を負った大事故は石田から天衣無縫な闊達さや奔放さをそぐことになった。

1963年(昭和38年)11月9日夜、横浜市鶴見区にて横須賀線上下線電車と貨物列車の多重衝突事故、いわゆる「鶴見事故」が発生、死者161人、重軽傷者120人を出す大惨事だった。翌10日、遺体が安置された横浜市・鶴見総持寺に駆け付けた石田禮助国鉄総裁は、大勢の犠牲者の棺の前でむせび泣きながら謝罪した(写真:共同通信社)
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 石田の経営手腕には疑問を投げかける向きもある。東海道新幹線の開通をはじめ、事故防止策の強化や国鉄合理化に取り組んだ一方、経営感覚の古さを指摘する声も少なくなかった。経営は変化対応だが、就任時の年齢からして限界もあった。

公職は奉仕すべし

 一方、「公職は奉仕すべき」の心は最後まで貫いた。鶴見事故以降、「やはり国鉄総裁というのはお金を貰ってやる仕事ではない。サービスアンドサクリファイスだ」と3分の1に減らしていた給料を辞退した。

 総裁在任中に勲一等を贈ると言われた際も「おれはマンキー(著者注:モンキー)だよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ」と石田らしく断った。日本の勲章の偉さは政治家、官僚、民間の順だ。そんな勲章をもらって何になる。石田はそれがわかっていた。

 石田は決して政治家に頼らなかった。政治家に対しても臆せずに「諸君」と呼びかけ、国会では「国鉄の今日の状況の遠因は政治にある」と歯に衣着せぬ発言を放ち、池田勇人を苦笑させた。

辞任のあいさつのため訪れた石田禮助国鉄総裁(左)に、ご苦労さんでしたと労をねぎらう佐藤栄作首相=1969(昭和44)年5月12日、首相官邸(写真:共同通信社)
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 晩年にノーブレス・オブリージュを実践して見せ、範となった。どこまでも「卑ではない」姿勢を示した。果たして今の経営者や政治家にここまで「卑ではない」者がどれくらいいるだろうか。