あえて火中の栗を拾う

 昭和38年(1963)当時の国鉄は50年代から死亡者が100人を超える事故があいついでいたこともあり、停滞していた。総裁職は気軽に引き受けられるポジションではなかった。初代の総裁の下山定則は轢死体となって発見され、第2代の加賀山之雄は桜木町事故の責任をとらされて退任した。

 その後の十河信二も160人の犠牲者を出した三河島事故や二度にわたる新幹線予算不足問題などが影響し、3期目の再選が見送られ、後任選びは難航していた。

 首相の池田勇人は経営の合理化を推進するためにも、これまでの官僚出身者でなく、財界に人を求めたが、誰もが及び腰だった。火中の栗を拾いたがる者はいない。池田から要請された経団連会長の石坂泰三が頼ったのが仲の良い石田だった。石田は昭和38年5月に国鉄総裁に就任するが、77歳だった。

1964(昭和39)年8月24日、東海道新幹線「こだま」の営業ダイヤによる本格的な試運転が行われ、国鉄の石田禮助総裁(右)と生みの親の十河信二前総裁が試乗した(写真:共同通信社)
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 石田は昭和31年(1956)から国鉄の監査委員長を2期、その後も諮問委員を務めていた。それでも周囲は海外生活が長く、合理主義者として知られた石田が「汽車にタダで乗れるくらいしかメリットがない」といわれた国鉄総裁を引き受けたことに驚きを隠さなかった。

 石田が引き受けたのは「おれがやらなければ誰がやる」という気持ちだった。実際、就任後の記者会見では「国鉄の窮状は見るに忍びず、乃公出でずんばの心境」と語っている。