「環境が整っていなければ、マイノリティは発言もできない」

──書籍の中では、女性東大生を露骨に批判している教員も紹介されていました。

矢口:1950年代、60年代になると、そういった教員も少なからず出てきました。女性に関する言及で最も多いのは、女性の学びに対する姿勢や能力についてです。

 曰く、「言われたことはやるがクリエイティブではない」「入学当初は成績優秀だが、講義が難しくなってくると成績が落ちる」「国立大学に入っておいて結婚したら家庭に入るのはけしからん」。

 もちろん、すべての教員がそう考えていたわけではないと思いますが、内部文書でもなく、一般の人の目に触れる雑誌にそのような記事を当たり前に書いていた教員がいたのは事実です。

 圧倒的に女性が少ない男性中心社会で、女性がクリエイティブな発言をすること自体、非常にハードルが高かったのだろうと私は思います。仮に自分が女性で、40人のクラスに女性が自分1人というような環境だったら、手を挙げて持論を展開するなんて到底できません。

 当時の女性東大生ができることと言ったら、教室の隅で黙々とノートをとる、言われたことを遂行する。それくらいしかなかったのかもしれません。その結果「女性はクリエイティブでない」という評価を得ることになってしまったのではないでしょうか。

 環境が整っていなければ、マイノリティは発言もできないのです。

 現在でも、その構造は変わりません。東大の8割の学生は男性です。何か問いかけたとき、最初に発言をするのは、必ずと言っていいほど男性学生です。

──仮に矢口先生が、1940年代から1960年代に東大で教鞭をとっていたら、女性東大生に対してどういった印象を持っていたと思いますか。

矢口:結局のところ私たちは、社会の価値観の産物です。60年前に東大の教員をしていたとしたら、私もおそらく女性東大生の能力や学問に対する姿勢をネガティブに捉えた教員と同じような視点を持っていただろうと思います。

 そもそも、1998年に東大に着任したとき、私は男性が8割という環境に何の違和感も憶えませんでした。

 けれども、21世紀に入ってジェンダーやダイバーシティが重要だという社会的な流れが日本でも強くなってきました。また、私は私で留学生とのコミュニケーションからさまざまな気付きを得ました。そうした中で男性比率8割という数字に疑問を持つようになったのです。

──東大は、2026年度までに女性の割合を学生で30%以上、教員で25%以上とする目標を掲げています。どのようなプロセスでこれを達成しようと考えていますか。