新聞・テレビは選挙運動期間中に「役に立たない」とみなされた?
このように近年、政党や政治家によるネットやSNS、動画を用いた選挙運動と政治活動、組織化と動員の可能性の探求と試行錯誤は進む一方で、市民の利益の観点から読み解く報道やジャーナリズムの刷新は後述するいくつかの理由でまったくといって進まないままだった。
それは今回の兵庫県知事選挙でもほぼ同じだったという認識でいる。とはいえ、そこになにかの意図があるというより、半分はやむを得ず、これまでと同じことを十年一日の如く繰り返してきたが、テレビと新聞、つまりマスコミの「マス」性が薄れ、影響力が低下するなかで決定的に時代遅れになってしまったのではないか。
周囲が変化しているなかで、これまでと同じことを繰り返しているだけだったとすれば、ただ取り残されていくだけである。
◎驚くほど無策な新聞業界と、報道を捨てたテレビ情報番組に思う…新聞・テレビが「マスメディア」でなくなる日 【西田亮介の週刊時評】| JBpress
日本の選挙運動期間は相対的に短い。知事選の場合は17日間である。しかし有権者の政治への関心はこの期間に良くも悪くも集中する。
しかし放送法と公選法を念頭に置くと主張するマスコミの報道は急激に抑制的になる。新聞は定量的な表現を抑制し「横一線」や「追い上げ」など定性的な表現にとどめ、放送番組では「主要候補」への放送時間の公平化を実践する。
かつてマスコミの影響力が強かった時代において、投票行動への影響最小化を念頭に置いた行動だと捉えることもできる。
現代の有権者は新聞を読まなくなり、テレビを見なくなり、もっぱら情報接触行動の主戦場はネット、SNS、動画にシフトしている。
これはすでに若い世代に限定されず、全世代にわたることに留意したい。ネットはもはや若い世代だけのものではないのである。
政治に関心を持ったときにネットや動画を見るのはもはや当たり前である。そしてなぜか日本のテレビ局と新聞社はネット媒体や動画においてさえ、テレビの画面と新聞紙面を作るときに准じた表現を用いること、つまり抑制的で、ネットなどと比べれば前述のはっきりしない表現が未だに主流である。
伝統的なマスメディアをよく見ていた人たちにとっては特に驚きも感じないが、新聞紙面を読まなくなり、テレビをあまり見なくなった現在の一般的な有権者や市民がそれを不満に感じたり、疑問に思ったりするのは至極当然のことだと筆者には思える。
かくしてテレビや新聞は選挙運動期間中に「役に立たない」媒体だと見なされるようになってしまったのではないか。