メディア不信とニュース離れはいつ訪れるか
冒頭に言及したが、十年一日とはよく言えばの話である。世界で見られる新しい放送表現なども日本ではとんと目にしない。
米大統領選挙のテレビ討論会で見られるようなリアルタイム・ファクトチェックは、前回2020年バイデンvsトランプの大統領選挙や2016年トランプvsヒラリー・クリントンは言うに及ばず、オバマの大統領選挙の頃にはインターネットで実施されていた。
日本でも政党や政治家のネット活用は2013年の公選法改正による広範なインターネット選挙運動の導入以来、活発化するばかりである。
SNSの利活用や最近ではYouTubeやInstagram、TikTokの活用が盛んだ。だが、メディアが主役のはずの討論会で、こうした新しい報道や手法を見かけたことがあるだろうか?
日本のメディアは旧態依然として、国内でも権力監視の対象である政治がデジタル化を推し進めているのに対して、すっかり置いていかれてしまったのである。
管見の限り、大変お粗末な状況だ。もちろん日本の場合、放送法で政治的中立性を要請されていることは理解しているし、それに対してアメリカでは1987年に同じ主旨を持つ公正原則が撤廃されている。
規制上の彼我の差は明らかだが、それではネットメディアを含めて一向に日本で取り入れられないのはなぜか。2016年に遡るとしても8年近い年月が流れたことになるが、海の向こうの流行が日本にやってこなくなったように感じる。
もちろん答えは一意に定まらない。制作費も増えないまま、人手も不足しているだけに現場の責任ということも難しいだろうし、年々高齢化する視聴者自身すら伝統的な表現を好むのかもしれない。
誰のせいでもないし、できることもそれほどないだろう。
だが、そうこうするうちに、新聞だけではなく若年世代のメディア接触傾向は明確にテレビ離れを示している。2020年代も特に打ち手がないまま日本においても世界と同じように、メディア不信とニュース離れが案外早い時期に訪れるか、すでに訪れているのかもしれないなどということを思った。
ポピュリズム的な現象や既存政党不信が広がるが、奇妙なまでに世界の状況と符合する。ニュース離れの世界の混乱と分断を想起することは容易だが、日本のメディアは、世界と同じ途を辿らない、容易ではない選択ができるだろうか。