新聞150年の歴史をすっかり取り崩してしまった
購読者が減ってしまってからできることは少ない。近年は品質管理やコンプライアンスのためにかかるコストが過去と比べてむしろ増えているにもかかわらず、読んでいない人も含めてマスメディア不信が広がっている。
読んでいない新聞不信、見ていないメディア不信は根拠があるわけではないだけになおさら厳しい。
多数派が読んでおらず、読んだことがないのに信頼できるかできないのかもはっきりしないコンテンツに対して課金すると思えるだろうか。
少し古い話だが、コロナ禍において、人々は信頼できるデータを求めたはずだ。総務省は2020年6月に「新型コロナウイルス感染症に関する情報流通調査」という調査を公開している。
コロナ初期で多くの人が正確で、有益な情報を切実に求めた時期だ。その時期においてさえ、「新型コロナウイルスの情報やニュースを見聞きした情報媒体」「新型コロナウイルスの情報を知る際に利用する情報源やメディア・サービス」のいずれの項目でも上位に新聞が入らなくなった。
政府や放送が信頼されていることがわかる。もちろん主観である。しかし新聞は存在感を明らかに失っていることがわかる。ここからどのような反転攻勢が考えられるだろうか。
新聞社は非新聞読者とその増加を無視して業界事情をごり押ししてデジタル化に失敗し続けた結果、新聞150年の歴史が蓄積した信頼と経営の基盤をすっかり取り崩してしまったのである。
今年に入って、夕刊の休刊、廃止エリアの拡大のみならず、富山県からの撤退など全国紙の全国紙性が問われるようなニュースも相次いでいる。
現代において新聞はなぜ購読する必要があるのか、特に非新聞読者が課金する合理的理由はいかなるものか明確に再定義することが急務だが、おそらくはこれから10年程度の時間をかけてラジオと同じように、パーソナルなメディアになる途を辿ることが強く懸念される。