明石博高と「殉国志士葬骨記」

 明石博高の師である桂文郁は、医者として開業するかたわら、六角獄舎の獄医を務めていたため、平野を知り懇意な関係に発展していた。平野は桂が和歌の大家であることを知り、和歌を2種贈呈するなどしている。明石自身も、平野と度々談合したと証言しており、弟子とも言われている。

 こうした縁から、明石は平野に特別の思いを持ち続け、墓所・遺骨調査を継続した。それについて、まとめられたものが「殉国志士葬骨記」である。編者の緒言は以下の通りである。

 この「殉国志士葬骨記」は、明治42年12月に完成しており、生野銀山事件(生野の変)の首謀者、平野国臣に関する弟子の明石博高の記録で、これによって、禁門の変の時に斬首された平野を始めとする天誅組および生野の変の関係者33名の処刑の日時や様子、墓所などが判明した。明石は数十年にわたり各所を探求し、京都市上京区下立売通綿屋川東入行衛町、竹林寺に埋葬されてあることを明治40年になって初めて突き止めた。これを探索された、明石氏の労苦を謝すものである。(筆者による現代語訳)

 まさに、明石の平野に対する想像を超える親愛の情が伝わってくるとともに、数十年間も平野の墓所を探し続ける粘り強い行動力には、頭が下がる思いである。いかに、明石と平野の繋がりが深かったのかが分るエピソードであろう。

 明石は確かに医者・化学者・衛生学者であり、即時攘夷運動など、政局とは無縁のような存在に見えたが、実際には数多の筋金入りの尊王志士との交流が存在した。平野に対する特別な感情も相まって、発露の仕方は相違したものの、志士的精神を常に帯同していたと評価することは、明石の本質を突いているのではなかろうか。