堀田の罷免と一橋派の敗北
安政5年6月23日、突如として、堀田正睦・松平忠固の両老中が罷免された。同日、堀田は朝廷からの継嗣決定承認の返信を公表した。その経緯は不分明ながら、自身の罷免と関係があろう。万事休すと悟った堀田は、この段階での公表に踏み切ったのだろう。
6月24日、徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、水戸藩主徳川慶篤は不時登城し、井伊直弼に条約の無断調印を面責した。これには、将軍継嗣の公表を遅らせる深謀があったのだ。松平春嶽も登城し、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説している。
しかし、こうした策略も功を奏せず、翌25日、家茂が継嗣となったことが公表されたのだ。ここに、一橋派の敗北が確定した。
堀田正睦の最期
安政6年(1859)9月6日、井伊大老の命で堀田は家督を4男の正倫(まさとも)に譲り、隠居を余儀なくされた。実は、井伊は時機を見ての堀田の再登用を検討しており、安政の大獄でも不問に付している。井伊は、堀田の堅実な政治行動を高く評価していたのだ。
しかし、堀田の再任は実現しなかった。安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変により井伊はこの世から去った。その後、文久2年(1862)11月20日、朝廷と幕府の双方からの沙汰で、堀田は蟄居処分となり、佐倉城で蟄居を強いられた。安政の大獄に対する、報復人事の一環であった。
元治元年(1864)3月21日、堀田は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55歳、浮き沈みの激しいジェットコースターのような人生であった。なお、堀田の蟄居処分は没後の3月29日に解除されている。まさに、外政内政ともに翻弄された激動の生涯であったのだ。