通商条約の違勅調印

日米修好通商条約 外務省外交史料館蔵 ワールドイメージング, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 安政5年5月15日、形勢不利と見た松平春嶽は堀田と会見し、さらに井伊直弼も松平忠固も論破して、建儲(将軍継嗣)の大策を定めるよう熱弁をふるった。同日、堀田は井伊に対し、継嗣も通商条約も違勅ではただではすまないと強弁するも不発に終わった。

 なお、5月6日、大目付土岐頼旨が大番頭、勘定奉行川路聖謨が西丸留守居に、5月20日、目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に左遷された。いよいよ、井伊によって一橋派の弾圧が開始されたのだ。安政の大獄の萌芽とも言える人事であった。

 6月1日、幕府は御三家以下溜詰諸侯に将軍継嗣(具体名なし)の決定を告げ、翌2日には朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りを固めた。ちなみに、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、堀田はあえて井伊に告げず、一橋派のための時間稼ぎを行った。

 6月19日、通商条約の違勅調印が行われた。一橋派は、対外情勢から調印はやむを得ないとの意見で一致していた。一方で、違勅調印を政治的に利用することを考え、これを強行したことを弁明するため、京都に使者(春嶽)を派遣することを主張した。春嶽派遣を実現し、ここでも、その際に朝廷から慶喜継嗣との内勅を得る策略であったのだ。

 さらには、井伊に違勅調印の責任を取らせて幕府中枢から追い落とし、春嶽を擁立して形勢の逆転を企図した。なお、春嶽派遣が難しい場合は、忠固を派遣し井伊との分断を実現するとの腹案を持った。事態はいよいよ、風雲急を告げる最終局面に突入する。