朝幕間の駆け引きと2回目の勅許拒否

 安政5年2月26日、井伊直弼は家士長野主膳(義言)を上京させ、堀田上京中の形勢を偵察させ、条約勅許の周旋および一橋派工作の妨害を命令した。政治活動に秀でた長野は、九条家青侍・島田左近を通じて関白九条尚忠を籠絡し、勅許賛成に転向させ、南紀派を支持する確答を得た。

長野主膳

 一方で、朝廷内の実力者である鷹司政通は、それまで勅許賛成派であったが、3月中頃に家臣三国大学・小林良典の入説で勅許拒否に転向し、さらに、3月12日には88人(廷臣八十八卿列参事件、岩倉具視が主導)、13日36人、14日19人の下級公卿が列参し、勅許反対の示威行動を行った。

 ところで、3月5日、堀田は議奏久我、武家伝奏広橋・東坊城に対し、通商条約の勅許を再度要請していた。これに対し、9日の朝議では、幕府側に寝返った九条関白が外交措置を幕府に委任する旨(条約勅許)の勅裁案を提示していたのだ。しかし、廷臣八十八卿列参事件等で九条案は事実上の撤回を余儀なくされた。

 3月20日、堀田は小御所に召され、これ以降も三家以下諸侯の意見を奏して、再び勅裁を仰ぐことを沙汰された。つまり、再度勅許は拒否されたのだ。22日、堀田は武家伝奏広橋、議奏万里小路・裏松恭光らに通商条約に関して、アメリカとの談判の変更は難しい実状を、理由や事情を述べて申し開きし、もしも不測の事態が発生した場合、その対処方法はどうすべきかを逆に詰問した。また、岩瀬・川路は廷臣からの質問に対し、腐ることなく詳細に回答しているが、堀田に挽回のチャンスは訪れなかった。