孝明天皇の真意はどこにあったのか?

孝明天皇

 ところで、九条関白の独断専行によって、事実上、3要件は葬り去られ、俄然、南紀派が優位となったが、孝明天皇は本件をどのように捉えていたのだろうか。彦根藩家老岡本半助上申書(3月28日)によると、「西丸(将軍継嗣)様も一橋様と御内定ニ相成候趣、是も天朝より御内々被出御座候由」と、朝廷・孝明天皇の意向から慶喜が継嗣と内定し、内々に幕府に沙汰があるとしている。

 また、時期は若干下るものの、九条関白宛勅書(安政6年(1859)10月16日)の中で、孝明天皇は往時を振り返って、「前大樹病身之所、外夷混雑不容易之苦心ヨリ、此度養君ニハ年長英明之人ニ無之テハ難治ト存、其通申出候事ニテ」と述べている。これによると、家定が病身であり、通商条約の問題が輻輳して容易ならざる苦心から、継嗣には年長で英明の人でなければ治まらないと思い、その通りに沙汰したと述べている。これらからして、孝明天皇の叡慮は慶喜継嗣で疑いなしと判断できるのではなかろうか。

 次回は、本シリーズの最終回として、堀田帰府後の幕政の激変、具体的には井伊直弼の大老就任と安政の大獄の萌芽、通商条約の違勅調印、堀田の罷免と一橋派の敗北、堀田の最期について詳解し、堀田外交の総括をして締めくくりたい。