米子城が山城っぽい理由

 ただし、この転封を「静岡支社から山陰支社への転勤」みたいに、現代感覚で甘く考えてはいけない。伯耆や出雲は関ヶ原の前までは、豊臣五大老の一角だった毛利家の領地なのである。そこへ中老、つまりは格下の中村家や堀尾家が入って行くのだから、その緊張感はいかばかりであったろう。

内膳丸から本丸を見上げる。内膳丸は本丸から北西に延びる尾根を守備する曲輪だ

 松江の堀尾家より一回り石高の少ない、つまり動員兵力の小さい中村家は、城も松江城よりコンパクトに、かつ堅固にまとめなければならない。同じ平山城でも、どちらかというと平城に近い松江城に対して米子城が山城っぽいのは、こんな事情によるのだろう。

 などと、築城のいきさつに思いを馳せながら山道を登ると、ほどなく中心部に入る虎口に着く。天守台の石垣が、目の前にそびえている。侵入者はここで、左右どちらに進むか決断を迫られるが、モタモタしていたら天守からズドン!というわけだ。

内膳丸から登ると本丸直下の虎口に着く。戦闘時には天守台から銃弾が降り注ぐ場所だ

 もっとも、左右いずれの道を選んでも、天守台に見下ろされる狭い通路を歩かされた挙げ句、厳重な構えの虎口を突破しなければ、本丸に入ることはできない。山麓の曲輪を破られ中心部に肉薄されてもなお、残兵を本丸に結集して徹底抗戦する … そんな設計思想がよくわかる縄張だ。

本丸周辺の防備の堅さは、ぜひ実際に現地を歩きながら体感してほしい

 こうして厳重な米子城を築いた中村一忠ではあったが、慶長15年(1610) に弱冠20歳で急死してしまう。中村家は断絶し、米子には一時的に加藤氏が入ったが、ほどなく城は鳥取池田家の支城となった。

 明治の初年の古写真を見ると、山上には望楼型下見板張りの五重天守が残っていた。考証的に天守の復元可能かどうかは別として、古城の景観のまま何も復元しない方が、この城には似つかわしいし、美しいと思う。城下から見上げるにせよ、城内を散策するにせよ。

この城を築いた中村氏が主だっだのは、わずか10年間のことである