米子城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

実戦的な平山城

 山陰本線の米子駅を下りて通りを少し歩くと、右手の小高い丘の上に立派な石垣が見えてくる。城好きなら、一気にテンションが上がること請け合いだ。はやる気持ちをおさえながら歩くと、ほどなく立派な石垣に行き当たる。米子城は、小高い丘の上から麓にかけて曲輪が展開する実戦的な平山城なのである。

街中から見上げた米子城本丸の石垣。画面中央、ひときわ高く天守台が聳えている

 城へは、二ノ丸表門跡から入るとよい。石垣造りの惚れ惚れするような枡形を入ると、ほどなく山道となる。平山城とはいっても、米子城は本丸以下の中心部と二ノ丸以下の山麓部との標高差が大きいので、中心部だけを見るとほとんど山城のようである。もっとも、道はよく整備されているので、スニーカーのような歩きやすい足回りで行けば、さほど労せず登ることができる。

二ノ丸表門跡の石垣。外枡形をこれほど鮮明に撮影できる城はなかなかない

 米子の地に、総石垣造りの本格的な城を築いたのは中村一忠といって、中村一氏の息子である。中村一氏は、早くから豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、山内一豊や堀尾吉晴とともに豊臣家の「中老」、つまり中堅クラスの幹部に位置付けられていた武将だ。秀吉の天下統一後は、駿府に14万5千石で封じられている。

 慶長5年(1600)に家康が上杉景勝討伐の軍を起こすと、他の多くの武将たちとともに、これに従った。つまり、関ヶ原における東軍側となったわけだが、一氏本人は従軍中に急死してしまい、関ヶ原の本戦には息子の一忠が当主として参加した。この功によって一忠は加増され、17万5千石をもって伯耆国米子に封じられたのである。

山上の天守台と伯耆大山。米子は眼下に日本海を眺める伯耆西部の要衝だ

 関ヶ原で東軍に属した彼ら中老グループのうち、山内一豊が土佐20万石、堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石だから、だいたい同じくらいの石高で大坂から遠いところへ封じられた形だが、中村家は急遽代替わりした分、少しばかりケチられた感がある。