鳥坂城の主郭から背後の堀切を見る 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「畝状竪堀群」とは?

「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」と呼ばれる防禦構造物をご存じだろうか? 戦国時代の山城に特有な構造物で、竪堀を並べて山腹を洗濯板のようにしてしまうものだ。

 畝状竪堀群は全国各地の山城で見つかっているものの、分布密度には地域差があって、関東〜東海地方では滅多にお目にかかれない。その一方、日本海側の地域では多く見つかっていて、わけても新潟県、つまり越後は本場という感がある。

鳥坂城の畝状竪堀群。こんなに鮮やかに畝状竪堀群を撮影できる城はなかなかない

 面白いことに、畝状竪堀群が多く分布している地域では横堀が発達せず、逆に横堀の発達する地域では畝状竪堀群が発達しない。これは「斜面をどう守るか」という命題に対する防禦思想の違いなのだろう。また、畝状竪堀群を積極的に用いる山城は、枡形虎口や横矢掛りといったギミックを用いない、という傾向も見てとれる。

 ところが、ここに大変興味深い事例が存在している。新潟県妙高市にある鳥坂(とっさか)城という山城だ。鳥坂城では、防禦上の弱点となりそうな斜面には随所に畝状竪堀群を施工する一方で、要所要所には枡形虎口や横矢掛りを設け、横堀と土塁で囲んだ堡塁のような曲輪まで備えている。

主郭背後の堀切は、稜線にザックリ切り込んでおり、ハシゴがなければ登れない

 要するに「全部のせ」の城なのである。新潟県内には、歴史上著名な山城や、規模壮大な山城が他にいくつもあるが、妙高市の鳥坂城ほどダイナミックさと緻密さを併せ持った山城は、ちょっとない。面白さ・見ごたえ、という意味では県下随一、いや、全国的に見ても屈指の山城ではないか。

二ノ曲輪の枡形虎口。画面左上から登ってきた通路が中央で直角に折れて、画面左下へと向かっている

 では、この場所になぜ、こんなすぐれた山城が築かれたのだろうか。その答えは、実際に城跡に立ってみればたちどころにわかる。主郭(本丸)に立つと、上越地方の中心である頸城(くびき)平野が一望できるのだ。見渡す先には鮫ヶ尾城や春日山城があり、その向こうには日本海、晴れた日には佐渡も見える。つまり、この城は頸城平野の突き当たりにあって、上越地方と北信地方とを結ぶ、交通の要衝でもあるわけだ。

主郭から鮫ヶ尾城・春日山城方向を望む。頸城平野の彼方に日本海が見える

 この鳥坂城が重要な意味をもったのは、御館(おたて)の乱のときである。すなわち、1578年(天正6)3月に上杉謙信が急死すると、二人の養子である景勝と景虎が家督を争って、内乱が勃発したのだ。結局、先手を打って春日山城と鳥坂城を押さえた景勝が、上越地方では優位に立ち、景虎は翌年には鮫ヶ尾城で滅亡する。このような情勢下で、鳥坂城には上杉氏が積み上げてきた築城ノウハウの全てが投入されたのだろう。

 鳥坂城については、もう一つ特筆すべきことがある。城が理想的な状態に保たれていることだ。これは、地元の鳥坂城跡保存会の努力と熱意の賜物である。

東側から見た鳥坂城。画面中央、木立が二箇所切れている所が大堀切だ

 山城の整備というと、とにかく木を伐ればよいと思っている人があるが、無闇に伐採してしまうと山が保水力を失って崩れかねないし、生態系も壊れてしまう。また、行政などが予算を講じて大々的な草刈りを行っても、後が続かないとかえって雑草が茂ってしまうものだ。

 その点、鳥坂城では、稀少な生物種や山菜(土地の人には大切な資源だ)にも配慮しながら、無理のない範囲で草刈りを行っている。ここの保存会の皆さんは義務感ではなく、城跡がきれいになって来てくれた人が喜んでくれるのが楽しい、といったスタンスで、持続可能な活動を行っているのがよい。

 この城の難点は、熊が出ることと、交通の便が悪いことだが、山上には広い駐車場があるので自家用車なら城のすぐ近くまで行ける。車を降りたら、歩き出す前にクラクションを大音量で鳴らしておくと、熊よけになるだろう。保存会では折に触れて見学会なども企画しているので、気になる方は情報収集に努めるとよい。

二ノ曲輪から主郭を見る。城内の主要部は下草が苅られていて大変に遺構が見やすい

 なお、9月6日発売『歴史群像』10月号に筆者が「戦国の城・越後鳥坂城」を寄稿している。香川元太郎氏の手になる復元イラストもすばらしいので、鳥坂城について詳しく知りたい方は、ぜひご参照いただきたい。