越前大野城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

のちに茶人としても名を馳せた金森長近

 越前大野という街の印象をひとことで表すなら、「清冽」であろうか。山々から流れ込んだ水が、小さく開けた盆地の中にこんこんと湧き出している。おかげで、醤油やお酒もよいものができる。

 近代化の流れから、少し取り残された感のある小さな街並も、それゆえにしっとりした風情を残していて好ましい。街なかに背の高い建物がないおかげで、小高い丘の上にある城が、今でも街を従えているような空気感がある。その城を、地元の人たちは親しみをこめて亀山城と呼ぶ。

城下町の風情が残る大野の街

 鉄道で越前大野を訪れるなら、福井からJRの越美北線に乗る。北線があるということは南線もあってしかるべきだが、いま鉄道路線図を見てもJRに越美南線はない。越美線は、かつて北と南から計画されたが、険しい山並みに阻まれて、ついに結ばれることなく、越美南線は第三セクターの長良川鉄道に名を変えた。

仕事でたまたま投宿した部屋から天守がよく見えたので望遠レンズで撮ってみた。トップの写真は、朝起きて同じ窓から撮ったもの(笑)

 北と南とは越前と美濃、だから「越美」なのである。この清冽な盆地は、また一方で交通の要衝でもあったのだ。とりわけ戦国時代の後期、越前に兵を進めた織田信長にとっては重要な意味をもった。美濃から郡上八幡方面を通って(越美南線のルートで)直接、越前に抜けられるルートを押さえる、橋頭堡の位置にあったからだ。

 信長はこの地に金森長近という武将を据えた。長近は、天正3年~14年(1575〜86)にかけて当地を領し大野城を築く。のちに彼が飛騨に転じてからは、当地の領有は転々とし、天下の趨勢の変化とともに戦略的重要性も薄れていった。天和2年(1682)に譜代の土井氏が封じられてようやく落ち着くものの、石高わずか4万石。

天守から眺めた城下と大野盆地。山並みの向こうは美濃だ

 こんないきさつだったから、長近以降の領主たちは、さほど大がかりな改修を加えなかったようだ。おかげで、この城は石垣や縄張などに天正年間の様式をよく伝えている。

 越前大野城は丘の上に本丸、麓に二ノ丸を置く典型的な平山城だ。

 本丸を中心とした丘の上の曲輪群は、地形に逆らわずコンパクトにまとめられ、その端をキュッと絞るように虎口を厳重に拵えてある。なるほど、亀が甲羅に手足を引っ込めるように防備を固められるわけだ。長近殿、なかなかできる御仁とお見受け申す。

丘の上の本丸には野面積みの古式な石垣が随所に残る

 天守台には、昭和43年(1968)に竣工した鉄筋コンクリート製の天守が、古色を帯びて建っている。史実に基づかない「はみ出し系天守」だ。江戸時代の絵図を見ると、今のコンクリ天守とは似ても似つかない形の天守が描かれている。金森長近のプロデュースした天守は、われわれが知るどの天守とも異なる、奇天烈なデザインだったらしい。

 長近は、のちに茶人としても名を馳せる人物で、彼が越前大野から飛騨に転じて築いた高山城の天守も、復元案によればかなり奇天烈な形をしていたようだ。むむ、長近殿、やはりできる御仁であったか。

天守から見下ろした天守曲輪の外枡形虎口。その先の虎口(画面奥)まで見通せる=撃ち通すことができる。実戦本位のタイトな縄張だ

 そんなわけで、現在のコンクリ天守は、史実から完全にはみ出しちゃっているのだが、城下から見上げると、なかなかにカッコいい。もし自分が城を築くとしたら、あるいは大金持ちになって自宅を天守の形に建てるなら、こういう形に建てたい、と思うくらいだ。

 ほどなく築60年を迎えるコンクリ天守は、近くで見ると傷みも目立ち、先行きが少々心配になる。とはいえ、金森長近の天守は、現代人の美的センスではどうせ再現できないから、今のコンクリ天守を何とか補修して、存続させてもらいたいものである。

現行のコンクリ天守は老朽化が目立つが、何とか残してほしい

*9月13日掲載「外観復元天守?復興天守?模擬天守?「再建」された城の天守をどう分ける?」、17日掲載「再建された「はみ出し天守」がユルく見える理由、ポイントは最上層と窓の数?」をご参照下さい。また『歴史群像』10月号に拙稿「非史実系天守の軍事学」を掲載しています。併せてご参照下いただけると幸いです。