数の力の「権力ゲーム」に屈した菅政権と岸田政権

 現職の総裁が、総裁選への出馬を断念するのは1982年の鈴木善幸、1991年の海部俊樹、1995年の河野洋平、2012年の谷垣禎一、2021年の菅義偉に続き6人目となる。現職首相で出馬断念となったのは、鈴木、海部、菅の各氏に続き4人目であり、特に首相が出馬断念になったかたが二代続いていることは注目される。

 菅氏は「ガネーシャの会」といった緩い支持集団はあるものの無派閥である。岸田氏を支える岸田派は、解散を決定するまでは党内第四派閥であり、多くの派閥の解散表明後は第三派閥であった。そうした首相を支える「数の力」の欠如が、これらの政権の安定性を損ない流動性を高めていたところがある。

 そもそも、この菅政権、そして岸田政権の成立自体が、強力な派閥による合従連衡の枠組みの上に載っていた政権であり、そうした意味では、首相は自らを支える主流派閥に配慮せざるを得ず、首相のリーダーシップが発揮しづらい状況があり、不出馬となったともいえる。

 こうした、派閥の「権力ゲーム」という総裁選の側面は、1978年のケースによく表れている。現職の首相でありながら、総裁選で大平正芳氏に敗北した福田赳夫氏の事例だ。

 予備選で敗北し、本選を辞退した福田氏はこの時に「天の声もたまには変な声がある」という発言を行った。他の派閥の多数派工作の前に敗北したといってよい。

1978年11月28日、自民党総裁予備選で1位になった大平正芳氏(左)と会談する福田赳夫首相=首相官邸(写真:共同通信社)1978年11月28日、自民党総裁予備選で1位になった大平正芳氏(左)と会談する福田赳夫首相=首相官邸(写真:共同通信社)
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 このように自民党総裁選の歴史は、派閥を中心とした党内抗争の歴史であった。