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 囲碁の総本山、公益財団法人日本棋院は7月17日に創立100周年を迎え、都内ホテルにて盛大に記念式典と祝賀会が行われた。新しく理事長となった武宮陽光六段は、「新たな100年に向けて良い方向に向かえるよう努力します」と挨拶。一力遼棋聖、芝野虎丸名人、井山裕太王座、藤沢里菜女流本因坊、上野愛咲美新人王ら参加したトップ棋士たちは、詰めかけた関係者や囲碁ファンに囲まれながら、さらなる飛躍を誓った。これまで数多くのトップ棋士が登場してきたが、中には囲碁界をザワつかせた「型破り」な棋士も。囲碁ライターの内藤由起子氏が、今でも語り草となっている今昔5人の型破り棋士を紹介する。(JBpress編集部)

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日本棋院創立100周年の祝賀会にて(左から小林光一名誉棋聖、川淵三郎・日本サッカー協会相談役、中村史郎・朝日新聞社代表取締役会長、角和夫・阪急阪神ホールディングス代表取締役会長グループCEO、羽生善治・日本将棋連盟会長、井山裕太王座/筆者撮影)
日本棋院の新理事長に就任した武宮陽光六段日本棋院の新理事長に就任した武宮陽光六段(筆者撮影)

引退碁の観戦記を川端康成が担当した「名人」の功績

【本因坊秀哉名人】(1874年6月24日─1940年1月18日)

 100周年を迎えた日本棋院。碁界の今は、本因坊秀哉名人(本名・田村保寿)が「型を破った」ことから始まる。明治・大正・昭和初期にかけて碁界の頂点に立ち、改革に挑みながら現代の棋戦の形を作った。

本因坊秀哉名人本因坊秀哉名人(写真提供:日本棋院)

 囲碁は徳川幕府の庇護を受け、いわゆる“専業棋士”が誕生したことで飛躍的に技術が伸びた。扶持が与えられたのが、本因坊家、安井家、林家、井上家。これら四家で競い合ったのだが、本因坊家が筆頭の地位で、ナンバーワンの名人を多く輩出した。世襲制で秀哉は二十一世本因坊となる。

 だが、徳川幕府が終焉し、棋士はよりどころを失った。そんな状況の中、「方円社」や「囲碁奨励会」など各所で囲碁団体が作られ、手合いを打ったり研究会を行ったり、棋譜を掲載した雑誌を発行したりするなどの活動が盛んになる。本因坊家も分裂や新組織との合同を繰り返していた。

 1923年、関東大震災で大打撃を受けた囲碁界は、ひとつに集まろうという機運が高まる。ほとんどの棋士とともに秀哉も多くの門弟を引き連れ、「碁界大合同」に参加。これが日本棋院誕生の大きな柱となった。

 1937年、秀哉は引退を表明。翌1938年から木谷實九段との引退碁を打つのだが、途中、秀哉が入院して一時中断したため、6~12月まで半年かけて1局が打たれた。

 数手打っては途中中断し、また数日後に再開を繰り返したのだが、その数日間に次の手を考えたり相談したりしては不公平になるので、「封じ手」という方法がここで初めて採用された。翌日以降に打つ一手を盤上に打たず、書いて封入するのだ。そして対局再開時に開封して着手する──。この方法は現在も続いている。

 ちなみに、この引退碁の観戦記は川端康成が担当し、『名人』と題した長編小説にまとめている。

 秀哉の大きな功績としては、世襲であった本因坊の名跡を日本棋院に譲り、「本因坊」を全ての専門棋士に開放したことが挙げられる。実力で本因坊となれることとなったため、碁界隆盛の礎を築いたのだ。

 トーナメントやリーグ戦で争う本因坊戦が創設されたことにより、日本棋院と本因坊戦を主催する毎日新聞社で対局規定が決められた。その中でも大きな変革が「コミ碁」だ。

 江戸時代より対局は白番と黒番を交互に打って、勝ち越した方が勝者になる制度だったが、囲碁では先に打つ黒番の方が有利なので、1回の勝負で決めるためには、白番が最後に目数(ハンディ)をもらって公平にする必要がある。それが「コミ」である。

「コミ碁は碁にあらず」という棋士も多数いたほど、コミ碁の導入には大きな波乱があったようだが、現代の棋戦はほぼ、このときに決まった棋戦の方式を踏襲し、コミ碁(コミの目数は変化した)で行われている。秀哉の決断が、現代碁の基盤となっているのだ。