
(堀内 勉:多摩大学大学院教授 多摩大学サステナビリティ経営研究所所長)
時間を「直線的」に捉えるキリスト教
トランプ大統領の2期目が始動し、トランプ2.0の政策によって、今、時代は大きな混乱の中にあります。私たちの向かう先がユートピアなのかディストピアなのか、全く先の見えない時代になってしまいました。
そうした中で、私たちはこれからどのような未来を展望し、どのように行動するのでしょうか。人生は一度きりで時間は限られていると思うのか、現世はつらくても来世には良いことがあると思うのか、人間は何度でも生まれ変わると思うのか・・・「時間」というものをどう認識するかは、各人が拠って立つ宗教観に大きく左右されます。
日常生活の中では、時間というのは刻一刻と流れています。もちろん、嫌な時間はとてつもなく長く感じ、楽しい時間はどんどん流れていってしまうように、そのスピード感はまちまちです。ただ、その流れる方向は、昨日、今日、明日と一直線だというのが、大方の日本人にとっての時間のイメージではないでしょうか。
人々が日々の生活に流されて生の有限性を忘れないように、古代ローマの時代から、「メメントモリ(Memento mori)」(死を思え)や「カルペ・ディエム(Carpe diem)」(今を生きよ)といった警句が語られてきました。一見、対照的なこの2つの警句は、人生は有限であるという理解を共有し、生を深く味わうために補完しあっています。そして、そこにあるのは時間の有限性、貴重性、不可逆性といった宗教観です。
こうした時間の概念を、宗教に従って整理してみると、ヨーロッパやアメリカで支配的なキリスト教では、時間は直線的に捉えられています。この世界には神による創造があり、歴史は神の摂理のもとで終末に向かって進行します。『旧約聖書』の「創世記」では、神は6日間で世界を創り、7日目に休んだとされています。この時間構造は、世界がある目的と終末を持って進んでいることを示しています。
この歴史の流れの中で、神が介入し、人類に啓示を与え、遂にはキリストの受肉と復活という決定的な出来事が起こります。キリスト教的な時間では、この一度きりの決定的な瞬間が持つ意味が強調されます。即ち、一回性と不可逆性こそが重要であり、救いもまたこの歴史の一点で与えられる恩寵であるからこそ、歴史を単なる繰り返しとしてではなく、目的に向かって直進するものと見ているのです。