ゴシップネタのてんこ盛りでも皆から愛された「伝説の棋士」

【藤沢秀行名誉棋聖】(1925年6月14日─2009年5月8日)

 梶原武雄、山部俊郎九段とともに「アプレゲール(戦後派)三羽ガラス」などと呼ばれた藤沢秀行(本名・藤沢保)は、囲碁棋士史上もっとも型破りな棋士といえよう。

藤沢秀行名誉棋聖藤沢秀行名誉棋聖(1990年撮影/写真:共同通信社)

「華麗・秀行」と称され盤上では鋭い着想を見せた。棋聖戦6連覇や史上最高齢の67歳でタイトル防衛記録を塗り替えるなどの実績があったが、語り継がれるのは盤外でのことだ。

 アルコール中毒、ギャンブルなどで作った多額の借金、正妻以外の2人が2人ずつ子どもをもうけ、それを認知するなど今でいうゴシップネタのてんこ盛りである。

 数々のタイトル賞金は、借金返済に充てただけでなく、なじみの芸者に銀座で店を持たせるためにぽんと出してやるなど、あっという間に消えていった。妻や家族のもとに賞金がやってきたことはなかったという。

 アルコール依存症で、酔ったうえで狼藉を働き、警察の世話になることも度々あった。妻のモトによると、藤沢は酔っ払って帰宅すると、怒鳴りながら玄関の戸を壊して入ってきて、家の中では風呂や台所のガラス戸も壊したという。かと思うと何年も家に帰らない時期があったり、泥酔して家の場所が分からなくなったことも。挑戦手合のときだけは酒を抜いていたが、禁断症状に苦しんだ。

 しかし、そんな藤沢でも愛されていた。政財界には多くの支持者がいたし、日本だけでなく中国や韓国の棋士にもたいへん尊敬されている。

 大きな功績は後進育成だ。高尾紳路九段ら門下生以外にも大きく門戸を開いて指導する。

 昭和30年代、当時まだ10代の林海峰名誉天元や大竹英雄名誉碁聖ら、そして昭和40年代には木谷道場の石田芳夫二十四世本因坊、加藤正夫名誉天元、武宮正樹九段、小林光一名誉三冠、趙治勲名誉名人らが集まった。昭和50年代になると、依田紀基九段や藤澤一就八段らなど、藤沢の薫陶を受けた棋士は皆大きく羽ばたいている。

 さらに「なぜ他国に貴重な技術を教えるのか」という声をよそに、断続的に訪中することで、惜しげもなく技術を伝授し、中国のレベル向上にも大きく貢献した。

 病気との戦いも型破りだった。1983年に胃がんが発見された後、悪性リンパ腫で放射線治療、前立腺がんの投薬治療を行い、なんと3回がんを克服している。これだけでも、人間離れした存在だったといえよう。

 引退してすぐ、藤沢は独自の段位免状を発行すると発表した。数万円以上する日本棋院の免状料が高すぎることに対する異議だった。免状発行権は日本棋院の肝にあたる事業だ。藤沢は日本棋院から除名処分を受けたが、2003年に免状を発行しない確約の下、復帰した。

 そして2009年、83歳で死去。そのとき、夜明け前の空には雷鳴がとどろいたという。