碁だけではなく祝宴スピーチも長かった「学究肌」棋士

【梶原武雄九段】(1923年2月25日─2009年11月28日)

 囲碁棋士は「勝負師」「芸術家」「学究肌」の3つに分けられるといわれている。その中で、「学究肌」の最右翼として挙げられるのが梶原武雄だ。

梶原武雄九段梶原武雄九段(1963年撮影/写真:共同通信社)

「碁は序盤こそが学問。中盤は戦争屋に、終盤は能吏に任せておけばいい」という梶原の発言がある。序盤は布石、中盤は戦い、終盤は勘定(計算)というフェーズに分かれることを表現した。梶原の関心は創造的な序盤にあり、学問的探究心を持って深く研究した。

 江戸時代、時間制限なく手合いが打たれていた影響が、昭和になって時間制限が設けられても色濃く残っていた。

 1960年、梶原と関西の雄・橋本昌二九段との王座戦が2日制で打たれた。両者とも長考派で、1日で9手しか進まない。1日目の終わる時間が来て「封じ手です」と記録係に言われ、梶原ははっと我に返った。「そうか、封じ手か……」。ため息をついて「おとうちゃまは、くたびれたぞよ」と続けた。

 隣で打っていた棋士が「なんです、まだ4つしか石を置いていないのに」とからかうと、梶原は一言、「きょうの蛤は重い」と宣った。黒石は那智黒でできており、白石は蛤から切りだしていることから、白番・梶原の歴史的名言として語り継がれている。

 長いのは碁だけではない。愛する詩吟を浪々と披露したり、祝宴などでのスピーチも長かったという。最後の「甚だ簡単ではありますが……」の言葉に客が苦笑したという話は今でもしばしば笑い話として伝わっている。

 梶原は日本棋院院生師範を務めた後、木谷實九段が四谷に「木谷道場」を移転したときに、木谷の体調が思わしくないことを受けて内弟子たちの指導を請われ引き受けている。道場があった町名から「三栄会」と名付けられた研究会に、梶原は週に1度木谷家を訪れて門下生の碁を見た。

 弟子たちはひとりずつ梶原の前に出て自分の碁を並べ講評を受ける。一手目を置くと、「なぜそう打つ?」と梶原が問う。「なぜといわれても……」と門下生が口ごもっていると、「みんながそう打つからか?」と畳みかけられる。そこで「はい」などと答えたら最後、30分くらいひたすら説教された。説教も長かったのだ。しっかり自分の考えを語れれば、怒られることはなかった。

 当時門下生だった小林覚九段は、「とにかく怖くて門下生は皆固まっていました。『こんな手、昔ならキセルが飛んだ』と言われながら、すくんでいました。梶原先生があまりに怖かったおかげで、学校の先生が怒っても全く怖くなかった。今思えば、梶原先生の愛情ですよね」と振り返った。

 平成になると今度は梶原自ら「面倒をみようか」と申し出て、緑星学園(多くのプロを育てた囲碁塾)で、再び若手棋士たちを鍛えた。山下敬吾九段、青木喜久代八段、秋山次郎九段、加藤充志九段、溝上知親九段ら多くのトップ棋士が梶原の薫陶を受けている。

 木谷道場と緑星学園、どちらも昭和の終わりから平成にかけて、時代のトップ棋士たちが切磋琢磨した修業の場だ。梶原の影響を受けた棋士は3ケタはくだらないだろう。それだけでも型破りな実績なのだ。