藤沢秀行名誉棋聖(1990年7月3日、初めて開いた書展にて/写真:共同通信社)
(内藤 由起子:囲碁ライター)
昭和の時代に生きた偉人たちは、その豪快さや無茶ぶりが「伝説」として語られがちだ。昭和元年から起算して満100年を迎える節目(2026年)を前にした2025年、囲碁界ではもう一つの「100年」が節目になった。藤沢秀行名誉棋聖(1925年6月14日─2009年5月8日)の生誕100年である。
2025年6月、日本棋院大ホールで「藤沢秀行名誉棋聖 生誕百年の集い」が開かれ、生前藤沢とゆかりのあった棋士やファンら200人あまりが集った。
2025年6月15日、藤沢秀行名誉棋聖の生誕100年を記念し、日本棋院で開催された「生誕百年の集い」(筆者撮影)
盤上の藤沢は「華麗秀行」と称された。棋聖戦の連覇、国内外の若手への惜しみない指導──。だが一方で盤外では、酒、ギャンブル、借金、女性関係に明け暮れた。そんなハチャメチャな藤沢だったが、その人気は今でも衰えていない。「最後の無頼派」と呼ばれた藤沢の生涯を振り返ってみたい。
億単位の借金と人望、その危うい“同居”
藤沢秀行は1925(大正14)年6月14日、相場師として知られた父・重五郎と母・きぬ子の間に生まれた。
重五郎は複数の女性との間に合計19人の子をもうけたと伝えられる。家庭の常識が最初から揺らいでいた環境は、のちの藤沢の「枠に収まりきらない」気質を説明する材料として語られてきた。
やがて藤沢は妻・モトと家庭を持つが、私生活の逸話は絶えなかった。
藤沢はモトのほかに2人の女性との間に子どもをもうけ、すべて認知する。子どもは全部で7人。ちなみに棋士の藤澤一就八段は五男だ。
藤沢の還暦のお祝いの席に呼ばれた棋士は、「奥さんのほかに2人の女性もそろっていたのには面食らった。秀行先生はなんと懐が深いのかと思いました」と振り返る。藤沢の人柄の大きさもあるだろうが、モトの心の広さのほうが特筆すべきではないだろうか。
藤沢は外に女性をつくったことで、家にはほとんど帰ってこなかった。将棋の米長邦雄(永世棋聖)の妻が「うちの主人は週に5日は帰ってこない」と相談すると、モトが「うちは3年帰りませんでした」と返した――という話は有名だ。
ひさしぶりに帰宅しようとした藤沢、自宅の場所を忘れて駅から電話をかけ、モトに迎えに来させたこともあったという。
勝負事を好む棋士は多いが、藤沢は囲碁以外でも家庭を顧みず、タガが外れたかのようにギャンブルにのめり込んだ。
競馬、競艇、そして競輪。本人が「寝ても覚めても頭の中が碁でいっぱいで、どうにかなりそうだ。これを消すには、ばか騒ぎをするしかない。ギャンブルしかないんだ!」と漏らしたという回想も残っている。
手合い料を前借りし、阿佐ヶ谷の自宅を通り過ぎて立川の競輪場へ向かい、使い切ってしまう。さらに場内の高利貸から借金を重ね、それも使い切る。家には金を入れなかったため、家族の生活は常に逼迫したが、モトが華道教授をしてしのいだという。
一時借金は億単位に膨らんだとも言われ、対局を打っている襖の裏で取り立てが待っていた、という証言まである。
藤沢のファンだった元法務大臣の稲葉修が「せめて借金は銀行で」と借り換えの保証人になったエピソードは、型破りさが「人望」と混ざり合っていたことを示す。危うさと魅力が結びついていた棋士――それが藤沢だった。
「藤沢秀行名誉棋聖 生誕百年の集い」に参加した藤沢の五男、藤澤一就八段(左)と坂井秀至八段(筆者撮影)