「途中でやめない男」盟友の米長邦雄が見た藤沢秀行
なぜ藤沢は、これほど突き抜けた存在だったのか。盟友の米長は、生前こう振り返っている。
「秀行先生は何事も途中でやめませんからね。付き合っている女性に『このへんで終わりにしよう』とは言わないし、競輪だって途中でどんなに高配当の車券をとっても、最終レースまでやめない」
碁をとことん突き詰めて行った姿勢は、ほかの分野、とりわけ酒や女性、ギャンブルでも同じように突き詰めていったのだ。
米長邦雄氏(2003年撮影、写真:共同通信社)
現代では想像できないような人生を送った藤沢だが、碁にはひたすら真摯に向き合った。前出の坂井秀至八段は、こう語る。
「引退しても教えるために集中して碁盤に向かっておられた。自分の手合いがないのにそこまでするのは考えられません。70歳を過ぎても、一流棋士の名を挙げて『屁でもない。ちゃんと打ったら負けることは1ミリもない』とおっしゃっていた。70歳であの気迫、自分の力を信じる姿はすごかった」
弟子の高尾紳路(九段)や三村智保(九段)には、早朝5時、6時に電話をかけ「碁盤を持ってこい。あの碁のあの手、おまえはどう思ったか」などと問いかけた。
いつ電話がかかってくるか分からないので、弟子たちは研究を怠ることができない。三村は「恐怖だった」と振り返った。高尾は藤沢からの着信音をベートーベンの「運命」にして気構えたという。
高尾紳路九段(筆者撮影)
さらに門下の弟子以外にも教えを請うものには惜しみなく技術を伝授し、日本国内だけでなく、中国や韓国の次代を担う若手の育成にも力を注いだ。死後の2010年には北京に「藤沢秀行記念室」が設置されるほど、中国囲碁界からも感謝されている。
藤沢秀行の物語は、豪放磊落な逸話で終わらない。追い詰められた現実を抱えたまま、盤上で読み切り、決め切った。勝負は美談ではなく、当事者の人生そのものだ。藤沢の碁が今も人を引きつけるのは、その重さを隠さなかったからだろう。
「藤沢秀行名誉棋聖 生誕百年の集い」で展示された数々の写真(筆者撮影)
【参考文献】
『勝負師の妻――囲碁棋士藤沢秀行との50年』(藤沢モト著、KADOKAWA)
『勝負の極北 なぜ戦い続けるのか』(藤沢秀行・米長邦雄著、クレスト新社)







