京都御所 撮影/西股 総生

(歴史ライター:西股 総生)

当時、日本にはお金がほぼ存在しなかった

 これまで、大河ドラマの舞台として描かれたのは、戦国時代と幕末がもっとも多かったが、その理由は「人気がある」ということだけではなかった。戦国や幕末は、繰り返しドラマ化されてきたので、制作側にもノウハウの蓄積があり、セットや衣装・小道具の調達・作成、画面作りなど、何かとスムースに進めやすい、という事情もあったようだ。

 そこへ行くと今回の『光る君へ』は、セットや小道具、セリフに出てくる言葉なども、史料や絵巻物を参考にしながら、平安時代感を出すようにかなり努力している様子が見てとれる。それでいて、令和のわれわれが共感できるよう、ストーリーやセリフの表現なども工夫している。まずは、脚本・制作陣の健闘に敬意を表したい。

宇治橋にある紫式部像 写真/アフロ

 さて、そんな『光る君へ』の時代背景として、ひとつ頭に入れておきたいことがある。それは、平安貴族にお金持ちはいなかった、という事実である。

 意外に思われるかもしれないが、これは事実だ。なぜ、お金持ちがいなかったのかというと、当時の日本にはお金というものが(ほぼ)存在していなかったからだ。平安時代は、貨幣経済ではなく物々交換が基本だったのである。『光る君へ』でも、お金を登場させずに、まひろの生家の困窮ぶりを表現するよう、セリフなどに工夫がされていた。

 皆さんは「わらしべ長者」のお話をご存じであろう。捕まえたアブで作ったおもちゃがミカンに、ミカンが反物に、反物が馬に交換され、最後は馬が家になる話である。この話は、平安時代の物々交換経済を背景に成立したものにほかならない。

 一方で皆さんは、和同開珎や皇朝十二銭という古代の銅銭を、教科書で習ったはずである。たしかに8世紀以降、朝廷は中国(当時は唐)の制度を手本として、和同開珎に始まる皇朝十二銭を次々と発行した。

崇福寺跡出土の和同開珎 東京国立博物館蔵 出典/ColBase

 和同開珎などは各地の遺跡から出土しているから、それなりの量が作られてそれなりに流通したようである。けれども、結果的に日本には貨幣経済は定着せず、『光る君へ』の頃には物々交換経済へと逆戻りしてしまった。なぜだろうか?

 ここで押さえておきたいのは、日本は経済でも社会でも有史以来一度たりとも、海外から隔絶されていたことなどなかったことである。もともと古代の東アジア世界は、圧倒的な経済力・技術・文化水準を擁する中華帝国と、周辺の「田舎の民俗・国」、という図式で構成されていた。

 そして、東アジア世界の東の隅っこにある田舎者国家・日本が、グローバルスタンダードに追いつこうと、背伸びして整えたのが律令国家である。そんな日本の律令国家がイキって銭貨を発行しても、国際的な信用力なんかない。

 少なくとも、中国や朝鮮の商人たちは、日本側が皇朝十二銭で支払おうとしても認めるはずがない。貿易商が決済手段に使えない銅銭は、流通や仲買にあたる者たちも欲しがらない。結局はローカル経済の範囲内で地域クーポン程度にしか機能しないから、いずれは安く買いたたかれ、地金として鋳つぶされるのがオチだったろう。

皇朝十二銭 東京国立博物館蔵 出典/ColBase

 おそらくはこんなふうにして、平安社会は物々交換経済へと戻っていった。とはいえ、多種多様な商品が行き交う社会では、何かしら価値の基準になる物品が必要となる。平安時代にそうした役割を担ったのは、布や絹などの反物だった。比較的軽くて持ち運びが容易で、保存もきくからだ。「わらしべ長者」の物語でも、反物がキイになっている。

 こうした、お金のない物々交換経済の時代ということを頭に入れておくと、『光る君へ』もいま少し興味深く鑑賞できることだろう。

2000年に発行された二千円札。源氏物語・紫式部の絵柄が採用された 写真/アフロ