「鬼の動労」を牛耳る男

 当時、動労は「鬼の動労」と呼ばれていた。その動労を率いていたのが、動労東京地方本部委員長(当時)の松崎明氏だった。また、松崎氏には新左翼・革マル派の副議長だという噂もあった。

「松崎は間違いなく革マルの最高幹部だ。影で革マルを動かしていたのは間違いない」と、あるJR東日本のOBは断言した。

 確かに言われてみると、松崎氏の動労での出世に並行して動労はさらに戦闘的になっていった。1970年代初頭のマル生粉砕闘争に続き、ATS(列車自動停止装置)を確実に守る順法闘争、春闘賃上げストライキなど次々と動労は闘争路線を突き進んだ。国鉄利用者はその煽りを受けていた。待てども来ぬ電車。その度に新宿駅などのホームは乗客で溢れかえった。線路に投げ捨てられた無数のタバコの吸い殻が忍耐と諦めを表していた。

 乗客の我慢が切れた暴動事件も起こった。1973年3月13日、高崎線上尾駅で強力順法闘争に怒り狂った乗客たちが運転手と車掌を引きずり下し、電車に投石したのだ。

 それでも国労、動労の勢いは続いた。

 1975年11月26日、国労、動労は全面ストに突入した。ストは翌月の3日まで続き、これによって全国の鉄道、14万2502本がストップした。もちろん山手線など都内を走る電車もストップ、線路上を多くの人々が歩く事態が8日間も続いた。

 このストで国鉄は約400億円の損失を出し、総裁が辞任。そして国鉄の労使関係の破綻と対立は決定的となった。