東京大学を卒業して国家公務員上級職として仕事人生をスタートさせるのは、成功物語の雛形のようにも思えるのだが・・・(写真は神戸、cplz99atcsnilykによるPixabayからの画像)

 去る8月30日、そして9月6日に開かれた兵庫県議会「百条委員会」での斎藤元彦兵庫県知事の、責任逃れが唯一の目的となった見苦しい証言、発言の数々。すでにメディアでも大いに取り上げられ、ご存じの方も多いと思います。

 議員はもとより各会派の政治家、県民、国民全般から総すかんの状態であるのは、不信任決議案が提案される見通しが報じられているところからも明らかと思います。

 有権者の観点からすれば、あのように救いようのない発言を公の場でしてしまえば、県民の支持をすべて、未来永劫にわたって失うことは明らかです。

 ところが、当の本人は弁護士と入念に打ち合わせ、責任さえ逃れられれば構わないと思考停止している様子が見て取れます。

 これはいったいどういうことなのでしょうか?

 一つの答えは超「低EQ」症状です。そういう心理になっている。

 EQとは「心の知能指数」とも呼ばれる指標で、対人関係、対人能力を良好に発展させる基礎能力が著しく欠如している、あるいは極めて低い、もしくはそれらに顧慮しなくてもよい、という割り切りが、どこかでできてしまっている。

「低EQ」人材の一大産地は「東大」、私自身も40年来所属している「東京大学」で、とりわけ東大内、あるいはそこから役所系の現場に進んだ人間に「ある種のこと」が発生すると、割り方容易に「低EQ」化する症例が見られます。

 その原因の一つを、ここではあえて「東大合格型学習」への過剰適応と見なして、今回は検討してみたいと思います。

 現実の東京大学では、そういう19世紀からの困った遺制を何とか克服しようと、教官事務官みなで努力していることも、最初に記しておきます。