しかし、斎藤知事にはそういう器量が全くなかったようです。
知事就任直後から、ティーチインに際しても、自分が小ばかにされたように錯覚し、どなり散らし始めたのは、それまで中央から出向の「お客さん」部長、課長でしかなかったものが、本物の知事になりますから、当然まともなレクが入ります。
その機微が分からず、何も知らない自分を「馬鹿にされた」というコンプレックスの裏返し。
それまで常に、どこかに書いてある正解を丸写しして、お上手お上手と持ち上げられてきた幼稚な殿様気質のキャパシティを超え、対応不能で感情を爆発させるパターンを癖にしてしまったことが分かります。
つまり、「東大入試合格」を目指すガリ勉、その延長で公務員試験を突破する丸暗記と、その後19年間の役所生活で、三重1年、佐渡+宮城+大阪が3+3+3=9年、つまり、過半の10年が地方出向。
もしかして、そこで続けてきた「上澄み役所生活」で「殿様気分」が素になってしまったのかもしれません。
翻って、霞が関では昼夜を分かたず365日24時間のモーレツ勤務を強いられ、ここではパズルを解くように、自分の良心など無関係に、つまり極論すれば自らが人を死に追いやってしまっても、それに道義的責任など感じないような超「低EQ」思考停止を生活習慣にしてしまう。
アウシュヴィッツの看守が自宅で子供の誕生日を祝うような心理を素に、カニでもワインでも秘書課にすら分けずに自宅に持ち帰り「斎藤家の食卓」をにぎわして喜んでいるという、超低劣な幼稚知事を誕生させる傍ら、本当に必要な対処に現場で汗を流すといった経験を持たず中年になってしまっていますから、実は単なる無能な子供のような実力にとどまったまま、人間に進歩がありません。
その結果、40歳を過ぎていきなり本物の首長として、上澄みでは対処できない現実に直面、自らの無能を突き付けられ、無意味に高い天狗の鼻がへし折られ、人格が破綻、壊れてしまったものと推察されます。
あれこれ「おねだり体質」というのも、公務の規律はすっ飛ばして、自分はこんなふうに周りから大切にされる重要な人物なのだ、と確認し続けたい、実力も実績も人生経験も著しく貧弱な、哀れな実存の叫びとして典型的です。
県立高校内に設置された自動販売機から、知事自身の録音した声でメッセージが出る醜悪な自動販売機も目にしました。
ここまで気色悪いことを平気でできてしまうくらい、中身のない人間を、「20世紀東大合格型ガリ勉」と、その延長で上澄み役人生活を20年近くも送れてしまうという、歴史の間違いが作り出されてしまった。
そうした原点から改めていく必要があることを指摘したいと思います。
教育制度の失敗は、人の一生を台無しにします。斎藤元彦知事もある意味では、犠牲者とも言えます。
しかし、自分の不当な判断で複数の人を死に追いやるという、取り返しのつかない事態に直面しているはずなのに、それを直視できず、言葉だけ言い逃れればその場はやり過ごせると思えてしまう、パブロフの犬的学習の「成功体験」が、彼自身の人間らしい感情を圧殺し、ああいう非人間的な対応を取らせている因果を、国民はよく注視する必要があるでしょう。
ネットの揶揄では「サイコパス」などと記されていましたが、斎藤知事はサイコパスと判断される状況ではありません。
仮に、自分の家族や親族に、西播磨県民局長に起きたのと同様の事態が発生したら、実存が崩壊する程度には、元来は平凡な人間、小心で特段の業績もない一個人の本質が随所に見えています。
こうした人間を再生産しない、制度からの対策を私たちみなの未来のため、よく考える必要があります。