先鋭化する動労

 事の始まりは、GHQの反共対策だった。戦後、日本共産党が議席を伸ばしていくと共に旧国鉄内部でも共産党員やその支持者の数は増えていった。そこに始まったGHQによるレッドパージ。旧国鉄でも多くの職員が逮捕され、追い討ちをかけるようにGHQは公務員のストライキを禁止した。

 そうした中で発足した日本国有鉄道だったが、解雇反対、賃上げ要求でストを打てば組合員が解雇される、解雇されればさらにストを打つ、の悪循環が繰り返され、職場環境、特に運行現場の環境は常に闘いの中という状況が続く。

 そこに油を注いだのが、1972年頃から当局が打ち出した生産性向上運動(通称マル生)だった。マル生とは平たく言えば労使が仲良く協調し、収益を上げようというものだが、これに反発したのが国労(国鉄労働組合)、動労国鉄動力車労働組合だった。労使協調路線をとる“御用組合”の鉄労(鉄道労働組合)だけがこれを支持した。

 動労の職場闘争がより先鋭化しはじめたのはその頃からだ。反戦青年委員会革マル系の労組員に影響を受けた動労青年部の組合員は職場集会で動労と書いたヘルメットを被り、タオルで覆面をし、ナッパ服とよばれる紺色職場服の戦闘スタイルで気勢を上げた。

竿を構えてゲバルト訓練をする動労青年部たち。国鉄の鬼っ子だった(写真:橋本 昇)
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 その象徴が「スローガン列車」だった(「アジ電車」とも)。スローガン列車とは電車や機関車の正面や横っ腹に『マル生粉砕』『当局の不当解雇を許さないゾ!』などの様々なスローガンを石灰を水で溶いたもので書き殴った電車や機関車のことだが、当時はよく見かけたものだ。

 私が九州・小倉から上京するため寝台急行を待っていた時、ホームに滑り込んで来た機関車の前部には大きく『ベトナム反戦号』と書かれていた。